森が語る近代――屋久島の記憶と環境の変遷(明治-昭和-平成)
明治時代、近代国家としての日本が「富国強兵」と「殖産興業」を掲げる中で、屋久島もその波を免れなかった。かつて神域として崇められていた屋久杉の森は、国家の資源動員の対象へと転化されていく。1870年代、薩摩藩の財政再建策として屋久杉伐採が本格化し、明治政府下では官有林制度の導入により、山は国家財産として管理されるようになった。森はもはや「祈りの場」ではなく「計測可能な資本」となり、島民の生活と信仰を根底から変えていった。
屋久島の急峻な地形に挑むように林道が切り拓かれ、伐採は標高千メートルを超える地帯にまで及んだ。明治末期には杉材の搬出ルートとしてトロッコ線が敷設され、やがて電力開発と結びつき、昭和期の木材生産は最盛を迎える。だがその繁栄の裏で、山肌は削られ、水系は変化し、雨を呼ぶ森は「崩れやすい土地」へと変貌した。近代化の象徴である電柱や船の部材となった屋久杉は、同時に島の生態バランスを脅かす存在でもあった。
しかし島民の心には、森を「使う」と同時に「敬う」感情が根強く残っていた。伐採に従事した木こりたちは、木を倒す前に山神へ祈り、切り株を跨がないという古来の作法を守り続けた。「森が我らを育てた」という言葉は、単なる懐古ではなく、森との相互依存の記憶を刻む文化的な告白であった。伐採で得た米や灯油が生活を支えた一方、森の静けさの喪失は「心の飢え」を生んだとも語られている。
戦後、高度経済成長の波が屋久島にも押し寄せ、電源開発公団によるダム建設、道路網の拡張、観光振興が進んだ。だが1970年代に入ると、過剰伐採による森林荒廃が深刻化し、屋久杉保護運動が島内外で広がる。1980年代には「屋久杉自然館」が開館し、伐られた木の年輪が過去数千年の気候と人間の歴史を語る「時間の証言者」として展示された。そして1993年、屋久島は世界自然遺産に登録される。この瞬間、かつて伐られた森が「守るべき森」として再定義され、破壊の歴史そのものが保全の根拠へと転じた。
森の中には、伐られた切り株と共に、祈りの痕跡が残っている。神と自然、産業と信仰、破壊と再生——これらの対立は、いずれも屋久島という小宇宙の内部で織り合わされてきた。島民の口に今も残る「森が我らを育てた」という言葉は、過去への追憶ではなく、自然と共に生きる覚悟の継承である。森が語るのは、人間の罪ではなく、共に生きる知恵の記録であり、その声は今も雨音や風のうねりの中に響いている。
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