Monday, April 14, 2025

鉄火の海と血の砦――日清戦争三大激戦の記録 1894年から1895年

鉄火の海と血の砦――日清戦争三大激戦の記録 1894年から1895年

日清戦争のなかで最も血なまぐさい戦場となったのは、1894年11月、遼東半島の旅順で繰り広げられた「旅順攻防戦」である。日本陸軍は、清国が築いた堅固な港湾都市・旅順を目指し、三日間にわたる死闘を展開した。砲火と銃弾が飛び交う中、兵士たちは壕を越え、肉弾戦へと突入した。激しい白兵戦の果てに旅順は日本の手に落ちたが、占領直後、非戦闘員を含む多くの清国人が虐殺されるという惨劇が起こった。後に「旅順虐殺」と呼ばれるこの事件は、国際社会の非難を招き、日本の軍紀に影を落とした。とはいえ、旅順の陥落は軍事的には大きな意味を持ち、北洋艦隊の根拠地としての旅順を奪ったことで、日本は清国海軍に対して優位に立つこととなった。

それに先立つ1894年9月17日、朝鮮半島と山東半島の間に広がる黄海では、日清戦争最大の海戦が展開された。「黄海海戦」である。戦場は海原にあり、日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊が激突した。清国は定遠・鎮遠という重装甲の戦艦を擁しており、一見すると海軍力では優位に見えたが、実際には兵員の練度において大きな差があった。日本の艦隊は高い機動力と正確な砲撃を駆使し、敵艦に次々と損傷を与えていった。海戦は数時間にわたり、轟音と爆煙の中で艦が燃え、沈み、多くの命が海に消えた。結果として、清国側の艦艇の多くが沈没あるいは航行不能となり、北洋艦隊は黄海から撤退。制海権は日本に握られ、清国は海上の自由を失った。

そして翌年、1895年1月から2月にかけて、日清戦争の帰趨を決定づける「威海衛包囲戦」が始まる。山東半島の北端、要港・威海衛に集結していた北洋艦隊は、最後の砦として再起を図っていた。しかし、日本軍は陸から進軍し要塞を包囲、同時に海から連合艦隊が港を封鎖した。砲撃と突撃が交錯し、日ごとに砦は崩れていった。要塞砲台が制圧されると、港に閉じ込められた北洋艦隊は逃げ場を失い、日本軍の砲撃にさらされることになる。もはや為す術もなく、指揮官丁汝昌は毒をあおって自死。残された艦は次々に撃沈され、あるいは降伏し、北洋艦隊は完全に壊滅した。ここに至って清国は抵抗の意志を失い、戦争は終焉へと向かっていく。

旅順の砦、黄海の波間、威海衛の城壁――これら三つの戦場は、日清戦争を象徴する血と鉄の舞台であった。日本は陸戦と海戦のいずれにおいても清国を圧倒し、その近代軍事力を世界に示すこととなる。戦の果てに結ばれた下関講和条約は、日本の勝利を確固たるものとしたが、その過程には数えきれぬ死と、癒えぬ傷が横たわっていた。幕末を経て近代国家として歩み始めた日本にとって、この戦争は勝利の味を知ると同時に、戦争の残酷さと責任の重さを噛みしめる機会でもあった。

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