Monday, April 21, 2025

異端のうたびと、舞台の魔法を編む――下田逸郎と1970年『金バッド』

異端のうたびと、舞台の魔法を編む――下田逸郎と1970年『金バッド』

一九七〇年春、東京・渋谷のステージで、ある奇妙で呪術的なミュージカル芝居が幕を開けた。その名は『金バッド』。演出は東由多加、音楽は当時まだ無名に近い若手シンガーソングライター・下田逸郎。彼の名は、後に「踊り子」や「セクシィ」などで知られる叙情派フォークの旗手として世に出るが、この時点では舞台音楽という実験的な場に身を投じる、異端の表現者としての顔を持っていた。

時代は安保闘争と大阪万博が交差する一九七〇年。表層的には高度経済成長のピークに達しつつあったが、その裏で若者たちは、物質文明の肥大と精神の空洞化に抗うように、劇場やアングラ演劇の場へと身を投じていた。寺山修司の「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」、そして東由多加率いる「キッド・ブラザーズ・カンパニー」など、街の片隅の小劇場で"もう一つの現実"が紡がれていたのである。

その文脈の中で、『金バッド』はただの舞台ではなく、観客の五感に訴える魔法のような体験だった。舞台上では、俳優たちが儀式めいた動きで踊り、叫び、ささやき、肉体と言葉をぶつけ合う。その音楽を下田逸郎は、静かに、しかし底知れぬ情念で編んだ。ギター一本で紡がれる旋律は、時に甘美に、時に妖しく響き、舞台の奥行きを倍加させた。

彼の音楽は、当時流行していたフォークソングとも一線を画し、もっと深い"声の闇"を持っていた。彼の作曲は単なるBGMではなく、登場人物の内面や運命の歪みを"音"で語るものだった。舞台全体が詩的な"儀式"として機能し、そのなかで下田の音は、見えない糸のように全体を結んでいた。

『金バッド』は、一九七〇年三月から四月にかけて、木・金・土曜日の夜に渋谷ステージで上演され、一部の熱狂的な観客に迎えられたが、商業的成功とは無縁だった。しかし、それがむしろ、この時代における"真の芸術"の証しだった。テレビや映画が"見る芸術"を制覇していた時代にあって、下田逸郎と仲間たちは、"感じる芸術"の方へと足を踏み出していたのだ。

のちに彼は独立し、より私的で内省的な世界へと歩みを進めるが、その出発点にこの舞台音楽があった。あの異様な熱気と呪文のような舞台、そしてそのすべてを包む静かな旋律。あれこそが、下田逸郎という男の"胎動"だったのである。

◆ 下田逸郎の代表曲たち――詩と情念を紡ぐ歌の軌跡

■「踊り子」(1977年)
下田逸郎の最大の代表曲。繊細なギターと囁くような歌声で、恋人との刹那的な時間を描いた珠玉のバラード。森山良子、夏川りみ、倍賞千恵子などによってカバーされ、名曲として広く認知される。

■「セクシィ」(1976年)
性的な匂いと幻想性が交差する、不思議な魅力をもった楽曲。夜の都会の空気を封じ込めたような世界観で、アングラ文化とも共鳴した。

■「リバーサイドホテル」
井上陽水によって歌われたことで知られるが、作詞・作曲は下田逸郎によるもの。都会の孤独と退廃、そして洗練を感じさせる一曲。

■「魔女」
ボサノバとジャズの要素を交えた幻想的な楽曲。妖艶な女性像を描き、ステージでは即興演奏とともに演じられることもあった。

下田逸郎の作品群は、どれも単なる"歌"ではなく、一篇の詩であり、一場面の演劇であり、一夜の夢でもある。その原点には、一九七〇年の舞台『金バッド』があった。社会の表通りから少し外れた場所で、彼は常に歌の奥にある"気配"を紡いできたのである。

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