Thursday, November 13, 2025

永山則夫―連続射殺魔の風景―1968年

永山則夫―連続射殺魔の風景―1968年

永山則夫連続射殺事件(1968年)は、戦後日本の社会構造が抱える歪みを鋭く照らし出した事件として知られる。永山は青森県の極貧家庭に生まれ、幼少期から児童養護施設や少年院を転々とし、社会の周縁で生きてきた。1968年10月から11月にかけて、東京・札幌・京都・名古屋の四都市で拳銃を使った連続射殺事件を起こし、「四都連続射殺事件」と呼ばれた。使用された拳銃は米軍キャンプから流出したもので、戦後の占領体制と米軍の影響が、個人の悲劇にまで及んでいたことを象徴している。

事件後、マスコミは永山を「連続射殺魔」として報じたが、文学者や思想家は彼の行為を「構造的暴力」の産物としてとらえた。刊行された手記『無知の涙』は、社会から排除された若者の内面を浮かび上がらせ、単なる犯罪記録を超えて"語り得ぬ日本の現実"を訴えかけた。1970年前後は大学闘争が全国に拡大し、学生たちの間でも「抑圧」「疎外」「国家暴力」といった言葉が共有されていた時代である。永山事件は、その時代の矛盾を一身に背負った若者の絶叫として受け止められた。

『面白半分』42号(1975年2月)に掲載された映画『連続射殺魔』の自主上映告知文は、単なる事件紹介にとどまらず、「四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件」「十九歳の少年が逮捕された」「私たちが永山則夫の足跡を追ってもう一つの日本列島を幻視しようとした」と語りかける。そこには、個人の罪を超え、社会そのものの病理を地図のように描こうとする思想的志向があった。

この視点は、寺山修司や若松孝二、足立正生らが共有していたアングラ映画運動の流れとも響き合う。国家と個人、都市と辺境、暴力と沈黙――その裂け目に立って"もう一つの日本列島"を幻視しようとした試みこそ、永山事件をめぐる文化的記録の核心である。事件は、戦後民主主義の限界を暴き出し、同時にその内側に潜む"声なき者の叫び"を可視化した。永山則夫の名は、今もなお、社会の周縁から中心を問い直す象徴として生き続けている。

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