北見、流血の記憶──1985年から1986年にかけての一和会と稲川会の抗争
1956年、加茂田重政によって神戸市長田区に設立された加茂田組は、三代目山口組の有力な二次団体として出発した。関西一円に拠点を広げ、パチンコ店の保護事業や地場産業の周辺に影響を及ぼしながら、その存在感を強めていった。1960年代には明友会事件や根津組との衝突など、暴力団抗争にたびたび関与し、1973年には加茂田自身が服役。1977年には山口組の若頭補佐に就任し、組織内での地位を高めた。しかし1984年、竹中正久が四代目山口組組長に就任すると、その方針に反発して一和会を結成。加茂田は副会長兼理事長となり、いわゆる「山一抗争」が幕を開けた。1988年、加茂田は引退を表明し、同時に加茂田組も解散するに至った。
この加茂田組の北海道での活動を担ったのが、北見市に拠点を置いていた花田章率いる花田組であった。花田章は加茂田組の舎弟頭輔佐として、一和会系の道内勢力の中心人物となり、地元企業や土地開発を通じて北見に根を下ろしていた。一方、対抗勢力として道内に勢力を張っていたのが、稲川会稲川一家岸本組系の星川組である。星川濠希を長とするこの組織は、網走・北見を中心に地場の利益を確保し、稲川会の北日本戦略を支える存在であった。
1984年7月、星川組の組員が花田組の関連施設に散弾銃を撃ち込んだ事件が発生する。これが抗争の序章となり、両者の緊張関係は一気に高まった。そして1985年7月30日、北見市内のスナックで花田章と星川濠希が偶然遭遇する。花田が星川に向かって「ヤクザがやることではない」と言い放ったことが、直接的な引き金となった。
1985年8月1日午前、花田章は北見市内のスーパーマーケット「ベアーズ高栄店」で買い物中、星川組幹部二名により至近距離から銃撃され、4日後に死亡する。この事件は一和会と稲川会の組織的対立を現実の流血に変え、北見抗争と呼ばれる全面戦争へと発展していった。
花田の死から約3か月後の1985年11月19日、花田組幹部3名が北見市山下町のキャバレー「北海道」に押し入り、星川濠希と側近を射殺。道内において暴力団組長クラスが殺害された極めて異例の事件として、大きな波紋を呼んだ。続く12月11日には花田組佐藤組の幹部が銃撃され死亡。翌12日には同組員が重傷を負うなど、報復と応酬が続き、北見市は一時、暴力の渦中に置かれることとなった。
警察の取締りや上部団体の働きかけもあり、1986年1月15日、白老町虎杖浜のホテル「いずみ」で一和会と稲川会の代表者による手打ち式が行われ、抗争は終結を迎えた。表面的には平静を取り戻したかに見えたが、各組織の内部では動揺と疲弊が続いていた。
花田組は抗争後、「花田会」として再編され、舎弟であった橋本功が初代会長に就任。続いて若頭の丹波勝治が二代目会長となるが、1988年4月11日、札幌市で山口組弘道会系の組員により銃撃され、命を落とした。幹部の相次ぐ死によって、花田会は急速に勢力を縮小していく。
星川組もまた同様に抗争の影響を引きずりながら活動を続けていたが、次第にその存在感を失い、2017年11月には解散届を提出し、正式に組織としての活動を終えた。
この北見抗争は、北海道という地方都市に突如として持ち込まれた大規模抗争として記録された。それは一和会と稲川会という東西の大組織が地方都市で真っ向から衝突した異例の事例であり、昭和末期の暴力団史における象徴的事件となった。花田章と丹波勝治、そして星川濠希という名を残した男たちの死は、抗争の熾烈さと、組織の時代的限界を物語っている。北見という地が、一時期日本裏社会の注目を集めた舞台となった記憶は、今なお消えることはない。
No comments:
Post a Comment