風をまとう女たち――ファッションモデルと価値の断絶(1970年前後)
1970年前後、日本の街に新しい風が吹きはじめた。ミニスカートとブーツ、くっきりとしたアイラインの若い女性たちが街を闊歩し、駅のポスターや雑誌のページには、ただ美しいだけではない、どこか反抗的な香りをまとうモデルたちの姿があふれていた。ファッションモデルはもはや服の引き立て役ではなかった。彼女たちは、時代の美意識そのものを体現する存在となっていた。
麻生れい子のような若いモデルは、その文化のただなかにいた。ある誌面で彼女は「花森安治って、知らない」とさらりと言い放つ。それは単なる無知ではなく、むしろ意識的な線引きだった。花森は戦後の倫理と生活を説いた雑誌『暮しの手帖』の編集長。広告を排し、良識ある暮らしを掲げたその姿勢は、戦後日本の「慎ましさの美徳」を代表していた。しかし麻生れい子にとってそれはすでに過去の遺物だった。彼女の一言には、消費と表現を肯定する新しい価値観が透けて見える。
この転換期の日本では、モデルたちは単に流行を示すだけでなく、新しい女性像そのものを提示していた。たとえば山口小夜子。彼女が1970年代半ばにパリ・コレクションに登場した時、東洋的で無機質な美しさは世界に衝撃を与えた。切りそろえた黒髪に無表情なまなざし。身体そのものをアートのように扱った彼女の存在は、「日本人女性」のイメージを根底から変えた。山口が登場する前夜、麻生れい子たちは、まさにその「世界に向けた感性」の地ならしをしていたとも言える。
同じころ、資生堂のポスターに登場していたツナキミキもまた、広告とアートの境界を揺るがす存在だった。彼女は単に商品を売るのではなく、ポーズや視線の奥に「都市の匂い」や「モダニズムの空虚」を宿し、時代の感性を可視化した。雑誌『anan』が創刊され、パリの風をまとったモデルたちが誌面を彩るようになると、読者は"主婦"ではなく"女性"としての自己を新たに見出し始める。
そして、忘れてはならないのが桐島洋子である。彼女はファッションモデルという肩書きではなかったが、その暮らしぶりやスタイル、生き方そのものが「モデル的」に語られていた存在だった。自らのライフスタイルをエッセイとして発信し、女性が自立して世界を旅し、子どもを育てるという姿を見せた彼女の存在は、従来の「良妻賢母」とは決定的に異なる"生き方のモデル"を提示した。
このような流れの中で、花森安治の唱えた生活の倫理は、ある意味で新しい時代の女性たちにとっては「正しすぎた」。広告を排した暮らしの純粋さ。消費を疑う目。無名の生活者を見つめるまなざし。それらは今や、ミラノやパリを目指す雑誌とモデルたちの前では、どこか古びた響きを持ちはじめていたのだ。
麻生れい子の「知らない」は、そんな価値の移ろいを鋭く切り取る言葉だった。彼女は無関心によって、新しい美と倫理を語りはじめた。彼女の無言の姿勢は、「見られること」に意義を与える世代の登場を予告していた。ファッションモデルとは、言葉ではなく姿勢で語る存在。1970年、その静かな革命は、確かに舞台に立っていた。
No comments:
Post a Comment