身体は世界にほどけている ベルクソン「物質と記憶」
ベルクソンが「物質と記憶」の冒頭でまず打ち出すのは、世界を無数のイマージュの場としてとらえ、その内部に私たちの身体もまた一つのイマージュとして埋め込まれている、という姿である。ここではデカルト的な「内側の心」と「外側の物」という二分法は退けられ、世界の光景も机も他者の身体も、そして自分の身体さえも、同じ平面上のイマージュにすぎない。違うのは、自分の身体というイマージュだけが行為を起こしうる中心として特権的な位置を持つ点である。身体は世界の外に立つ観測者ではなく、世界の真ん中で作用と反作用の結節点として働いている。
このとき知覚は頭の中に映写された像ではなく、身体の周囲で起こる世界の変化として外側に現れる。身体はその変化に直接触れているのであり、私が机を見るとき、机の像が内側のスクリーンに投影されるわけではない。机というイマージュと身体というイマージュが特定の関係を結ぶこと、それが知覚なのである。だから外界と内面を分ける境界線は絶対的な断絶ではなく、行為の観点からの仮の区切りにすぎない。身体は世界から切り離された箱ではなく、世界の作用を受けとり、押し返す半透明の膜のような存在として捉えられる。
ベルクソンが身体と世界の連続性をここまで強調するのは、二つの袋小路を避けるためである。一つは、外界を「心の中の表象」に還元してしまう観念論であり、もう一つは、身体を単なる物理的機械として扱い、心を付け足すしかなくなる機械論である。世界にすでにイマージュの連続があり、その中で身体が一つの節として位置づくなら、「どうやって外が内に届くのか」という難問はそのまま溶けてしまう。外と内は本来つながっており、身体はその接続の仕方を変調する装置にすぎない。主体とは孤立した「私」ではなく、世界とのつながり方そのものだという輪郭がここに現れてくる。ベルクソンがこの連続性を押し出すのは、記憶や自由を断絶ではなく連続の地平から語り直すための準備でもある。
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