"エコミュージアムの役割"
エコミュージアムの目的は、地域の保護と活性化にあります。その地域にとって本当に価値のある資源を再確認し、それらを保全・育成し、活用していくことが重要です。しかし、これらの取り組みは手間と時間がかかるため、即効性に乏しい側面があります。そのため、短絡的な考えから、集客力を高めるために建設したハコモノ施設だけでスタートしてしまうケースも多いのが現状です。 "エコミュージアムの多様性" エコミュージアムの役割は単なる観光資源の開拓にとどまりません。地域の魅力(文化・産業・自然)を最大限に引き出し、経済的自立を促すと同時に地域の発展に寄与する人材を養成する機能も持っています。地域全体が一つの学校や研究所であり、成果を発表する場でもあります。中核となるコアミュージアムが情報交換や発信基地として機能すれば、新たなハコモノ施設を設ける必要はありません。
"地域のビジョン"
地域の成功事例を見ると、その背景には必ずキーパーソンとなる人物が存在しています。町長や町の職員、市民グループ、または一個人が、行政と住民とのパートナーシップ体制を確立しています。そして、地域の住民一人ひとりが自分たちの住む地域の将来像について明確なビジョンを共有することで、新しい価値観を創造し、地域全体が一丸となって取り組むことが、エコミュージアムの本来の姿であると言えます。
"エコミュージアムの提唱"
1960年代に、フランスのジョルジュ・アンリー・リヴィエール(国際博物館会議初代会長)によって提唱されたエコミュージアムの概念は、自然環境の維持保全を両立させつつ、中央との経済格差を埋めていこうという取り組みです。この概念は、「地域住民の生活と、自然・社会環境の発達過程を史的に探求し、自然施設として存・育成や伝達の場とし、展示することを通して地域社会の発展に寄与することを目的とした博物館」と定義されています。
"エコミュージアムの実践"
従来の行政主導型のまちづくりとは異なり、エコミュージアムは地域の強力なパートナーシップに基づいています。具体的には、当該地域に散在している独自の自然・文化・産業遺産をサテライト施設として活用し、地域の所有する住宅や民間の産業施設を博物館として設置することがあります。時には、住民自身が文化を伝える学芸員として活動することもあります。
"イーハトーブ・エコミュージアム構想"
岩手県東和町では、宮沢賢治の唱えた理想郷「イーハトーブ」の実現を目指し、広い地域文化圏をまるごと「学校・研究所・実践空間」に変革させるエコミュージアム構想が進められています。この構想のもと、地域のあらゆる資源を最大限に活用し、住民や地域を訪れる人々が共に学び、考え、実践することを目指しています。
"山形県朝日町ー朝日町ミュージアム構想"
山形県朝日町は日本におけるエコミュージアムのパイオニアとして知られています。1989年には町の「朝日町第3次総合開発・基本計画」にエコミュージアムの理念が盛り込まれ、日本初の「エコミュージアム国際シンポジウム」が開催されるなど、官民協力のもと計画が進行しています。町の基本理念としては、自然との共生を目指し、新しい生活スタイルの確立を重視しており、「農業研究所」や「空気神社」などの施設が設立されています。
"岡山県津山市一津山・城西まるごと博物館"
城下町として発展し、歴史的町並みを有し、提灯、畳、仏具など昔ながらの手仕事などの暮らしが息ついている同町。城西地区のまちづくり構想として「暮らしが活きるまちなみ博物館構想」をまとめ、96年にはその実践のひとつとして、同会議と地元町内会の合同で、地区の町並みや手づくり工芸をスタンプラリーで紹介するなどの「津山・城西まるごと博物館フェア」を開催。その後、常設のエコミュージアムの実現に向けた取り組みを進めようと市民グループ「津山まちづくり市民会議」を結成。地区内の手仕事を調査し、それらのお店をミニ博物館として登録・紹介したり、現地やホームページ上にミュージアムショップを開設するなどネットワーク化を進め、まるごと博物館の取り組みと連動させながら情報発信・交流を行っている。
"愛媛県内子町一 「町並み保存」から「村並み保存」ヘ"
江戸時代から大正時代にかけて、ハゼの実から採れる木ロウの産地として栄えた同町。その頃の名残で今も立派な商家が多く、その町並みを見物に年間50万人以上もの観光客が訪れる。75年に雑誌で町並みが大きく取り上げられたことによって自らの町の価値を再認識したことに端を発する。81年には「伝統的建造物群保存条例」が制定されるなど、町並み保存の機運が高まった。しかし、その一方で、周辺の山間地域では過疎化が進み、その対策が大きな課題となっていた。
"徳島県土成町、上板町、板野町一あさんライプミュージアム"
そのため、町並み保存運動で培った理念とノウハウを農村部にも波及させることで本当の豊かさを実感できる町にしていこうと、農村景観の保存や、生活・文化の継承を中心とする「村並み保存」を掲げた。阿讃山脈や宮川内谷川など3町が共有する自然環境を背景に培ってきた文化や産業など地域の資源を見直し、自然・文化・伝統的産業を護り育てていくことを目指す。94年度に3町の行政と住民代表による「あさんライプミュージアム運営協議会」が組織され、「彩=生活を豊かにするための自然や歴史の彩り」(板野町)、 「技=自然の素材を生かした技術の蓄積」(上板町)、 「餐=食のもたらすもてなし、くつろぎ」(土成町)の3つのテーマセンターを整備。3町全体を屋根のない “広域青空博物館” として、地域交流による活性化を図っている。
"宮崎県綾町一照葉樹林と有機農業の里づくり"
88年に有機農業を推進する「自然生態系農業の推進に関する条例」を全国で初めて制定したことで知られる同町。76年に町と農協が協力して有機農産物の青空市場を開設したのをキッカケに、町ぐるみでの有機農業への取り組みを展開してきた。その後町は農家の自立と有機農業の推進などを目的に「綾町農業指導センター」を設置、78年には「綾町自立経営農業振興会」を発足させ、自給肥料供給施設、家畜ふん尿処理施設、家庭生ごみの堆肥化施設などを設置。有機廃棄物の域内循環体制を整えた。また、同町はもともと手づくり工芸が盛んで、陶芸、木工芸、竹細工、ガラス工芸、染織物など約40の手づくり工房がある。これらの地域資源と国定公園にも指定されている照葉樹林を活用したグリーンツーリズムを推進し、都市部との交流を図り、総合的な産業の振興と、教育・文化の振興を図っている。
"熊本県小国町一悠木の里づくり"
84年の国鉄民営化に伴う赤字路線配線により残された肥後小国駅跡地(2ヘクタール)の再開発として、小国杉の間伐材を活用し、従来の木造建築とは異なる木造立体トラス構法による交通センターを建設。これを手始めに同構法による「林業総合センター」、町民体育館「小国ドーム」、研究宿泊施設「木魂館」などを相次いでオープンさせた。斬新な木造建築は全国的にも高い評価を受け、この木の復権運動が地域づくりに発展していった。86年から小国の自然と資源、培われてきた特性を生かした地域活性化運動「悠木の里づくり」をスタート。90年には新たな小国像を「小国ニューシナリオ」としてまとめ、ものづくりから人づくりへと発展させた。中でも土地利用に関しては、乱開発を防ぐために住民が自ら計画を策定するなど、地域コミュニティへの参加意識と生活の質の向上を図っている。翌91年には町の6つの大字のそれぞれに「コミュニティープラン推進チーム」が設置され、各地区ごとに地域づくり構想を策定した。さらに97年には農山村の自立を図ることを目的に「九州ツーリズム大学」を開校し、ツーリズムを実践している担い手の人材育成を行なっている。
"山形県西川町一人と自然を大切にするまちづくり"
80年前後から地域崩壊を危惧する町職員が集まり「住豊かさについても考え、地域づくりを支える人材育成へ」とみたくなるまちづくりを考える会」を結成。81年の「第3次町総合計画」を策定。国土庁の「リフレッシュふるさと推進モデル事業」の一環として「大井沢自然博物館」と「自然と匠の伝承館」を89年にオープン、そこを拠点に都市と農村の交流事業にも取り組んでいる。
"茨城県稲敷郡東町一あずまエコミュージアム構想"
霞ヶ浦や利根川など河川に接し、水稲を中心とした農業によって発展してきた東町では、現在の穀倉地帯としての地域特性を活かしつつ、適正な市街地の形成、全町的な都市基盤整備の推進を図るため、96~98年度にかけて都市計画の基本方針である「まちづくりマスタープラン」を策定。全戸配布アンケートや各界代表者によるヒアリングなどを通じて住民の意見を反映させた。このマスタープランに基づき、町の自然や歴史などの良さを活かし、伸ばしていくとともに、すべての町民が一体感を持てるような町を目指すための取り組みである「みらいプロジェクト」をつくった。この中で、東町の根幹産業である農業を活かしたプロジェクトとして「あずまエコミュージアム構想」が挙げられている。町の農業の歴史の展示とともに、教育・文化・福祉施設を集積した複合ゾーンの歴史民俗資料館をコア施設とし、横利根間門や水神宮などのサテライトをネットワーク化するとともに、新たに遊休農地を利用した体験農場や直販センター、青空市場を整備する計画だ。
"群馬県大間々町一小平の里"
小平に鍾乳洞があったという記録をたよりにその入口を発見し、地域住民のボランティアによって洞内の土砂をかき出して鍾乳洞公演を整備。これを機に住民主体の町づくりが進められるようになり、親水公園や陶芸工房、湿性植物園などが整備された。現在、小平の里は年間約20万人もの観光客が訪れる観光スポットとなっており、また、住民50人の雇用も生まれ、過疎対策に大きな成果を挙げている。
"千葉県富浦町一富浦エコミュージアム構想"
東関東自動車道の全面開通で、何らかの売りとなる部分がなければ同町は単なる通過点になってしまうとの危機感から、当初町は農業従事者の慰安施設と文化施設を併せ持ったアグリリゾートの整備を計画。しかし土地の確保で住民からの反対もあり難航していた。そのような状況の中、90年にフランスのエコミュージアムを視察。地域にある施設をそのまま残して活性化するというエコミュージアムの考えを取り入れたアグリリゾートをつくろうと「富浦エコミュージアム研究会」を発足した。特産品である枇杷加工事業や、花摘み、イチゴ摘みなど体験型観光農業をサテライトに位置づけ、91年から事業を展開。その後、観光と産業を融合するという考えのもとに検討を続け、93年に道の駅に拠点施設である「枇杷倶楽部」を設立させた。運営主体の「(株)とみうら」は町100%出資の第3セクターであり、社長である町長を始め、幹部はすべて町戦員。その事業理念として「まず経済的に自立し、次のステップとして文化事業の育成や地域への波及を考えていく」としており、初期段階からの住民参加を前提とした他所の考え方とは大きく異なっている。
"新潟県高柳町一じょんのびを生かしたまちづくり"
85年の国勢調査で人口減少率が県内ワースト1位になってしまった同町。そうした厳しい状況の中で町に残った若者たちが、地域のことは地域で考えようといった考えのもと、都市部での物産展やイベントなどの活動を開始。その活動の中で、都会の人は心の交流を求めていることに気付いたことがキッカケだという。88年には「ふるさと開発協議会」が設置され、以後2年間に200回以上もの会合を重ねた。その中で町の資源を生かしながら経済的な活性化を目指し、地域に魅力と誇りを取り戻すことを目標に、地域づくりの理念である「住んで良し、訪れて良し」が作成された。キーワードはゆったり、のびのびとした状態を意味する「じょんのび」だ。その後、都市部との交流を核とした地域振興策を積極的に展開。92年にはまず経済の活性化を図るため「(株)じょんのび村協会」が設立され、温泉宿泊施設や食事処などを集約した「じょんのび村」の建設が始まる。同時に景観保全や町内集落の活性化を目的にかやぶき家の民宿「かやぶきの里」が整備された。観光客が最低限必要とする施設だけを用意することで、豊かな自然や町民とのふれあいを全面に押し出している。
No comments:
Post a Comment