「モモ」の作者ミヒャエル・エンデは、同時にマネー について根源的な問いかけをしてきた作家だといわれています。 1999年 5 月、彼の主張はNHKテレピで「エンデの遺言」として放映され、お金についての彼の主張が述べられました。その放映と前後して、日本の各地でもいくつかの「エコマネー」ができるなど、マネー変革の流れを起こしつつあります。エンデの主張は「重要なポイントはたとえばパン屋さんでパンを買う購入代金としてのマネーと、株式取引所で扱われる資本(株式取引所で扱われる資本というのは、投資または投機目的で株式などの売買を行なうことを意味していると思われます。)としてのマネーは、 2つのまったく異なった種類のお金である、という認識J(エンデの遺言: NHK出版より抜粋)というところにあります。
そして、 「今、世界中で動いているマネーの95%以上が実際の経済の商品やサーピスの取引(パン屋さんでパンを買うこと)に対応したものではありません。今日、国際為替市場で1日に取引されるマネーの量(証券取引所で扱われる資本のこと)は 1 兆5000億ドルとも 2 兆ドルともいわれます。これは1日の量です。1年になおしたら信じられない額です。その95 %が実際の経済ととは対応しない単なる金融上の取引に使われています。早い話が金が金を生む、そうした投資先を求めた動きや投機に使われているだけですJ (同書より)ともいっています。
その結果、 「こうした国際的な流れが、アジア、ロシア、中南米の金融危機をみても明らかなように、何度も問題を起こしてきている」 (同)という状況があるにもかかわらず、マネーが集中し、偏在し、 「北の豊穣南の貧困」は改善どころかさらに悪化する傾向が続いています。ちなみに、 1997 年 5 月から 2.力月間、国際投機集団ヘッジファンド(ジョ ージソロスのクオンタム ・ ファンドなど)とアジアの国の間で繰り広げられた通貨攻防戦の最終の勝利者は、国家ではなくマネーだといえます。この影響は、タイ、緯国、それに続くアジアの国々、さらに、ロシアやラテンアメリカに及びました。そして、今なお、その傷跡は修復されているとはいえません.
なぜ、このようなことがおきるかといえば、マネーは現実の生活の場においては「力」そのものなのですが、その力の作用する先に大きな違いがある、ということです。つまり、パンを買うお金200円と株式に投資するお金200万円は、 200円と200万円の価値の違いがあります。この場合の価値の違いというのは、お金のもつ力の違いですが、同一の力、なのです。しかし、現実の生活では、お金の力としてはまったく同じものでありながら、片方は生きるための食料であり、もう一方はそれがなくても生きていける株式に対する投資のお金として作用します。力づくのマネーとでもいいましょうか。このように考えてみると、マネーという共通の尺度をもつというだけで、この両者が同一価値基準の世界にいることを理解するのがむずかしくなります。なぜなら、人間はパンがなければ生きていけないのに、株式投資をしなくても生きていけるからです。マネーの偏在、集中、エンデはそれを「現在のマネーのあり方そのものに問題がある。現在のマネーはすでに役割を果たし、それ以上の力をもって人々の上に君臨しているのではないか」 (同)という主張で私たちに警告しています。
エンデはつぎのように説いています。「私が考えるのは、 もう一度、 貨幣を実際になされた仕事やものと対応する価値として位置付けるべきだという'ことです。 そのためには現在の貨幣システムの何が問題で、 何を変えなくてはならないのか、 を皆が真剣に考えなければならないでしょう。 人類がこの惑星の上で今後も生存できるかどうかの決定的な問いだ、 と私は思っています。 非良心的な行動が褒美を受け、 良心的に仕事をすると経済的に破滅するのがいまの経済システムです」(『エンデの遺書』)と。
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