Friday, June 6, 2025

跡地利権騒動と都市の闇――1950年代初頭の歌舞伎町

跡地利権騒動と都市の闇――1950年代初頭の歌舞伎町

戦後日本の混乱がなお尾を引く1950年代初頭、東京・新宿の一角に位置する歌舞伎町では、見過ごせない都市の軋みが生まれていた。それが「跡地利権騒動」である。舞台は、かつて米軍が接収していた施設――すなわち映画館や興行施設、さらには空襲時に築かれた防空壕の跡地である。

1945年8月の敗戦後、新宿一帯は進駐軍によって占拠され、「アーミー・キャンプ」として使用されていた。このエリアには、かつての日本映画のメッカとなるべき映画館用地が整地されていたが、戦中は防空壕として使用され、戦後は進駐軍の手に渡っていた。

しかし1952年のサンフランシスコ講和条約発効とともに進駐軍は次第に撤退を開始し、土地の返還が始まる。ここで問題が起きた。元の所有権があいまいなまま、多くの跡地が"空白地"として宙に浮いた状態になっていたのである。こうした空白地には、もともと町内会が管理していた土地や、戦前に借地として使われていた場所も含まれていた。地元住民たちは「自分たちの土地を返せ」と主張する一方、進駐軍の撤退を見越して動いていた不動産ブローカーや暴力団関係者は、書類上の不備や曖昧な登記を突き崩し、所有権の既成事実化を図った。

特に有名なのが、防空壕跡地を巡る対立である。この場所は、戦時中に地域住民の避難場所として掘られたもので、戦後もしばらく"空き地"として放置されていた。ここを舞台に、町内会と不動産業者、さらにはその背後にいたとされる暴力団との対立が先鋭化し、一時は道路封鎖という異常事態にまで発展したと記録されている。封鎖されたのは花道通りに近いエリアで、地元の商店主や住民らがブルーシートで囲い込み、侵入を阻止したとされる。

この一連の事件の背景には、高度経済成長の入り口に立つ東京の土地神話がある。1950年代は朝鮮戦争の特需景気(1950〜1953年)が日本経済を大きく押し上げ、土地の値段が高騰していく最初の波が始まった時代でもある。地価の上昇とともに、「空地=金」に変わるという意識が社会全体に広がった。つまり、この土地を誰が取るか、誰が借りるか、誰が貸すか――それが一種の"戦争"になっていったのだ。

また、当時の歌舞伎町はまだ「歓楽街」として完全に整備されたわけではなく、戦後の闇市の匂いを残していた。GHQ統治下で秩序が乱れたまま取り残されたエリアには、密売・非合法営業・地下経済の構造が根強く残り、そうした場所にこそ、利権と暴力が交錯しやすい。政治家や警察も、この動きに一定の距離を保ちつつも黙認していたといわれており、都市計画と民間開発の間には巨大な空白地帯があった。

このような事件は、戦後の"都市の胎動"のなかで、人びとがどのように土地を「所有」し、「奪い合い」、「意味づけていったか」を示す典型でもある。やがて、この跡地に映画館や歓楽施設が建ち並び、歌舞伎町は本格的な歓楽街へと変貌していくが、その陰には地元民の静かな抵抗と、資本と暴力の乱舞があったのである。

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