逃走迷路とバカラ三昧――北朝鮮系ハッカーとカジノの奇妙な接点(2016年)
2016年、世界の金融機関を震撼させたのが、北朝鮮の国家支援型ハッカー集団「ラザルスグループ」によるサイバー強盗事件だった。舞台となったのはバングラデシュ中央銀行。彼らは国際決済網「SWIFT」を乗っ取り、アメリカ・ニューヨーク連邦準備銀行にある口座から総額9億5100万ドルの不正送金を試みた。うち8100万ドルがフィリピン・マニラへと着金。これが後の「RCBCマネーロンダリング事件」へとつながる。
この時代、北朝鮮は国際社会による経済制裁の網を強められており、2016年3月には国連安全保障理事会が、過去最も厳しい対北朝鮮制裁決議(第2270号)を採択したばかりだった。外貨獲得手段が乏しくなるなか、体制維持のために"ハッカー部隊"を活用した外貨稼ぎは、国家戦略として現実味を帯びていた。
物語は、RCBC銀行ジュピター通り支店に架空の口座が開設された2015年5月にさかのぼる。五人分の口座が開設されたが、住所は嘘、手紙は戻ってくる、だが不審を誰も指摘しない。この「何も起きないまま数ヶ月放置された口座」が、2016年2月、突如として数千万ドルの資金で膨れ上がる。
副支店長アガラドの証言によれば、支店長マイア・デギトは「私や私の家族が殺されるくらいなら、こうしたほうがまだまし」と語ったという。行内では巨額送金を巡る混乱が広がり、だが本部は一貫して「正当な送金だ」とする通知を支店に送った。この矛盾が、やがて公聴会での激しい責任追及へとつながる。
マニラ湾岸で開かれた上院公聴会は、通常の議会施設では対応しきれず、急遽「ベイビュー・パーク・ホテル・マニラ」のホールが使われた。議員は皮肉たっぷりに「次に金を届けるときは、私のところに」と語り、RCBCやフィリピンの銀行制度のガバナンスの弱さを笑い飛ばした。
一方、盗まれた資金は、フィリピンのカジノリゾート「ソレア」へと運ばれ、謎の中国語話者グループによって"バカラ"のチップに変換されていた。VIP係トニー・ラウの証言によれば、彼らは毎朝出勤のようにカジノに現れ、3時間ほど淡々とゲームをして去る。「勝っても負けてもまるで感情がなかった」とラウは述懐する。
彼らの資金は、チップから再び現金化され、トラックに積まれて運ばれた。500キロの紙幣を動かすためには、2人の中国人が運搬を担っていたことも判明した。配送先の一つが「ウェイカン・シュウ」という謎の人物だったが、公的機関に問い合わせても、「記録なし」の返答で、手掛かりは完全に途絶えた。
さらに、カジノ内で記者が注目したのは「バッグスツール」という、客のハンドバッグ専用スツール。そこにポンと置かれた高級ブランドバッグの存在が、金の出所の"場違いさ"を象徴していた。
この事件は、冷戦期の諜報戦とは異なる、21世紀の「サイバー戦+資金洗浄」の複合的国家犯罪の典型として注目される。そして、制裁を潜り抜けるために、ハッカー、銀行、カジノ、運送、さらには政治の場まで巻き込む構造のスケールは、現代の「戦争なき戦争」のあり方を示していた。
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