Wednesday, June 4, 2025

逆破門の夜明け――長岡宗一と柳川組の北海道進出史(1960年代前半)

逆破門の夜明け――長岡宗一と柳川組の北海道進出史(1960年代前半)

三代目山口組は田岡一雄の時代に全国組織として急成長を遂げた巨大暴力団である。そのなかで異色の存在として台頭したのが在日韓国・朝鮮人出身の柳川次郎であった。本名を文世光といい、かつての愚連隊をまとめあげて東京に「柳川組」を設立し、その実力をもって山口組に迎えられた。柳川は三代目組長・田岡一雄の舎弟として認められ、東日本、とりわけ東京とその周辺への山口組進出の先兵を担うこととなる。彼が率いた柳川組は在日系構成員の結束力と、興行・芸能・右翼活動との連携力によって、短期間で広大な影響力を持つに至った。

こうした柳川組の勢力拡大の一環として、北海道に送り込まれたのが長岡宗一である。長岡は北海道空知郡岩見沢町(現・岩見沢市志文町)の出身で、札幌市の商業学校在学中は柔道やボクシングに熱中し、のちにボクシングジムを経営するなど、力と統率力に優れた人物だった。1961年12月、札幌で行われたプロレス興行で柳川組若頭の谷川康太郎らと知遇を得た長岡は、その後、北海道で興行界を牛耳っていた小高龍湖との対立を深める。そして1962年5月、ついに小高に対して破門ではなく逆破門状を送りつけるという、ヤクザ社会では極めて異例の手段に出た。

この逆破門事件に象徴されるように、長岡宗一は極めて独立心が強く、かつ行動力に富んだ人物であった。彼は柳川組の後ろ盾を得て、谷内二三男や石間春夫らとともに「北海道同志会」を結成し、その初代会長となる。同志会はその後、三代目山口組柳川組北海道支部として再編され、長岡は支部長の地位に就いた。こうして、柳川組の北海道進出は現実のものとなり、札幌を中心にその影響力を拡大させていった。

しかし1965年11月、長岡は突如として現役を引退する。柳川組北海道支部の支部長職は石間春夫に引き継がれ、組織はやがて「誠友会」へと改称され、北海道最大の組織へと変貌していく。一方、柳川次郎も1969年に山口組を離脱し、ヤクザ世界からの引退を表明する。柳川組自体は解散に追い込まれるが、その思想と組織運営の手法は後の暴力団勢力に多大な影響を残した。

長岡宗一の引退後の足取りについては詳細に語られることは少ないが、1994年に亡くなったことが記録されている。だが、彼の残した逆破門という大胆な行動や、柳川組とともに築いた北海道ヤクザ社会の新秩序は、今なお伝説的に語られている。柳川次郎という東の異才と、長岡宗一という北の開拓者。この二人の交錯によって、1960年代のヤクザ社会は確かに大きく揺れた。

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