Tuesday, June 3, 2025

信じることの痛み――ビートルズが去った後の僕たちの空白(1974年)

信じることの痛み――ビートルズが去った後の僕たちの空白(1974年)

あれは何だったのだろう――と、僕は思う。レコードジャケットを見つめながら、もう何百回目かわからない問いをまた呟いてしまう。ビートルズ。あの四人の男たちが作り出した音楽に、僕たちはなぜあんなにも取り憑かれていたのか。

もうすっかり神話のようになってしまったけれど、僕たちにとってのビートルズは単なるポップスではなかった。それは「信じてもいい何か」だったのだ。戦争も革命も、教師も親も、すでに信じるに足るものではなかった時代に、ビートルズの音楽だけが、何かを感じさせてくれた。あの軽快なコード進行の奥に、世界の果てまで届くような響きが確かにあった。

けれど、それも過ぎ去った。1970年、ビートルズは解散した。世界が終わったわけじゃないのに、僕たちの中では何かがぽっきり折れてしまった。彼らがいなくなったというより、「自分たちが信じたものが音を立てて消えた」という感じだった。

1974年のいま、街にはグラムロックとフォークソングと、政治的な空白と皮肉ばかりが漂っている。学生運動は瓦解し、オイルショックの混乱が庶民の暮らしを揺さぶっている。東京の喫茶店ではレコードが流れ続けているけれど、誰もじっと耳を傾けてはいない。

だから僕たちは、つい自嘲気味に「ビートルズね、まあ好きだったけどさ」と言ってしまう。好きだった、でも今さら、って。けれど本当は、まだ信じたくて、どこかで「もう一度」という気持ちを捨てきれない。あの頃、彼らを信じることができた自分の感受性が、いまの皮肉な自分を支えている。つまり、「信じた痛み」こそが、まだ僕を生かしているのだ。

当時の若者文化は、自己否定と諦念のなかで、「感情の精度」を保とうと必死だった。誰もが政治に疲れ、夢想に破れ、それでも何かを信じたかった。ビートルズの音楽はその"何か"だったし、それが失われたことで生じた空白を、僕たちは埋めきれずにいまも歩いている。

音楽は流れ続けるけれど、あの「全員が信じられた時間」は、もう戻ってこない。だからこそ、いまのこの皮肉と沈黙のなかに、かつての熱を思い出すのだ。

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