Thursday, June 5, 2025

映画と性表現――文芸とポルノの狭間(昭和40〜50年代)

映画と性表現――文芸とポルノの狭間(昭和40〜50年代)

1960年代後半から70年代にかけて、日本の映画界では一つの転換点が訪れていた。高度経済成長にともなう娯楽の多様化の中で、テレビが急速に家庭に普及し、映画館離れが進んでいた。大手映画会社の経営も傾き始めるなか、にわかに脚光を浴びたのが「ピンク映画」と「ロマンポルノ」である。

ピンク映画は、低予算・短期間で制作された成人向けの娯楽作品であり、1962年の『肉体の市場』を皮切りに急増した。これに続き、1971年には日活が路線変更を行い、本格的に「ロマンポルノ」ブランドを立ち上げる。ロマンポルノはピンク映画よりも大手による製作で、芸術性や文芸性を一定程度担保する"格調"を意識したつくりであった。

この変化のなかで、若い観客たちは単なる好色のまなざしではなく、ある種の文学的関心や社会的関与の手段として、それらの作品に向き合っていた。なかには、性描写の中に人間の孤独、閉塞感、そして生の欲動の根源を見ようとする青年たちもいた。

「ぐっと一突深くいれて――なるほど、ヘッヘはこんなものなのだ」

というような印象的な回想が文中に現れるように、彼らにとってのポルノとは"性の知識"だけではなく、"世界を知る"ことでもあった。それは、"カストリ雑誌"や翻訳書で知識を仕入れた"知的な自慰"とは別の、実感と匂いに満ちた「現実」との接触だった。

昭和40年代の日本は、一方で性の開放が語られながらも、まだまだ公的な場では抑圧的だった。校則は厳しく、男女交際も監視の目があり、家庭でも「性」を語ることはタブーに近かった。そうした中で、映画館という暗がりは、誰にも邪魔されずに"見てよい"場であり、その匿名性が多くの青年を引き寄せた。

また、これらの作品には、芸能の伝統的な"見世物"文化が反映されていた。客席から見られることを前提とした芸者や踊り子のように、スクリーンのなかで女優たちは「見せる」役割を担い、その"見せ方"においても節度や演出の妙が重視された。そこには、江戸時代の芝居小屋に連なるような、猥雑さと様式美の混交があった。

このように、ピンク映画やロマンポルノは、単なる性の商品化を超えて、"鑑賞"の対象、"文学"の延長、"逃避"の場所、"反抗"の装置と、観る者によって多様な意味を帯びていた。とりわけ青年期の感受性にとっては、それが"最初の性教育"であり、同時に"社会との最初の摩擦"でもあったのだ。

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