### 「被官さま」に手を合わせる夜――昭和46年、浅草裏路地にて
神も仏も信じちゃいない。子どもに「神さまなんて迷信だ」と言われても、まったく異論はない。なのに、なぜか俺は浅草の裏にある「被官稲荷」に、折に触れて手を合わせてしまう。賽銭なんて年に五百円、信心と呼べるほどのもんじゃない。けれど、あの小さな社の前に立つと、不思議と背筋がしゃんとするんだ。
昭和46年、東京は目まぐるしく変わっていた。ビルが建ち、地下鉄が延び、みんなが前しか見ていなかった。でも、俺たちのいる場所は違った。水商売、芸者、役者、興行師――どれも浮き草のような稼業で、今日の売上が明日の飯に直結する。そんな俺たちが頼れるのは、せいぜい自分の体と運だけだ。だからこそ、背後を固める何かが欲しくて、あの稲荷に足が向くのかもしれない。
被官さまのまわりには、吉原の女郎屋や芝居町の役者の名前が彫られた石垣がずらりと並ぶ。鳥居には新門辰五郎の名――浅草の顔だった火消しの親分。あの人の女房が狐憑きになって、ここで祈ったら治ったって話も残ってる。まったく、そういう話がゴロゴロ転がってるのが、浅草のいいところさ。
夜になると、社のまわりはほの暗く、街娼が腰を下ろし、俺みたいな金のない若いのがひやかしに歩く。あのころ、石段に座って女の背中を眺めながら、どうにか一発の夢を見ていた。今では副業でレストランでもやって、先の暮らしを安定させるのが"正しい"生き方なのかもしれない。けど俺は、それよりも、この薄暗い社の前で、あの頃の自分と、これからの運を静かに祈る方を選びたい。
被官さまへの祈りは、信仰じゃなくて、追憶と決意だ。俺の青春と浅草の闇が、まだここにはちゃんと息づいている。だから今夜もまた、そっと手を合わせるんだ。あの狐の石像に見守られながら。
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