「ブルースは嘆きにあらず――淡谷のり子の抗いと誇り」―昭和戦前〜戦後期
淡谷のり子が生まれた明治40年、日本は富国強兵の志のもと帝国主義を推し進め、都市と地方の格差が拡大するなかで近代国家としての体裁を急ごうとしていた。彼女は青森の豪商「大五阿波屋」の家に生まれるが、わずか三歳の時に大火によって家は没落する。母と妹とともに上京した彼女は、やがて東洋音楽学校に進み、裸婦モデルをしながら首席で卒業。音楽教師から「十年に一人のソプラノ」と賞された。
だが、音楽家として自立するには、女性にとって社会的偏見の厚い時代だった。昭和初期、日本でラジオ放送とレコード文化が始まり、庶民の音楽鑑賞が芽吹きつつあったとはいえ、「正統」は依然クラシックであり、ブルースやジャズといった"舶来"の音楽は軽視されていた。
彼女はクラシックの道を自ら離れ、浅草の映画館でアトラクション歌手として歌い始める。これは、当時の常識からすれば堕落ともとられかねない選択だった。昭和12年、藤浦洸作詞・服部良一作曲の「別れのブルース」で一躍トップスターに。ソプラノでありながら低音で囁くように歌い、世間をあっと驚かせた。深酒と煙草で声を枯らし、マイクに寄せるその唱法は、以後のブルース歌手に大きな影響を与えた。
日中戦争が始まり、やがて「敵性音楽」としてブルースも検閲対象となるが、彼女はドレスを身にまとい、戦地へ慰問に赴いた。「別れのブルース」を歌う彼女に、兵士たちは心を重ねた。だがそれは国策協力ではなく、あくまで"女としての尊厳"を賭けた行為であった。
戦後、ジャズやブルースが再評価される中で、彼女も復活を果たす。しかし昭和20年代から30年代にかけて、発声訓練もせずにスターとなった若手に対し、「あれは歌手じゃない カスよ」と一刀両断。美空ひばりや三波春夫らも"歌屋"のレッテルを貼られた。
だが、その一方で、才能ある者には惜しみない賞賛を与えた。晩年には五輪真弓の「恋人よ」を自身のレパートリーに加え、心を込めて歌ったという。自己への厳しさは、日々の発声練習を一日も欠かさなかったという逸話に表れている。
平成5年、脳梗塞で倒れ、ステージを去る。だが平成8年、米寿記念コンサートでは、「別れのブルース」を森進一に、「雨のブルース」を美川憲一に"形見分け"として託し、世代を超えた継承の意志を示した。
平成11年、92歳で死去。女性初の青森市名誉市民に推される。――「スモークの中から囁くように浮かぶブルース」は、昭和という時代の陰影そのものだった。彼女は、単なる歌手ではなく、昭和の憂愁と女の誇りを声で貫いた"孤高の表現者"であった。
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