**独り立ちした日本のロックの象徴――RCサクセション**
1970年代初頭、日本では「日本語でロックを歌うべきか」という論争が巻き起こっていた。英語こそがロックの正統であるという見解が支配的で、日本語でロックを表現することに対する抵抗が根強かった時代である。だが、はっぴいえんどや頭脳警察、キャロル、サディスティック・ミカ・バンドといったバンドたちは、さまざまな試行錯誤の末、日本語とロックの融合を模索した。そして1980年代に入って登場したRCサクセションは、まさにその到達点のひとつを示した存在だった。
RCサクセションは、忌野清志郎の明快な発音による日本語詞の歌唱と、仲井戸"チャボ"麗市の独自のスケール感を持つギタープレイを軸に、ソウルやロックンロール、ファンクの要素を自然に織り交ぜたバンドだった。彼らの音楽は、洋楽の模倣ではなく、確かな土着性と日本的情緒を持っていた。特に「雨あがりの夜空に」に見られるように、観客が一斉に合唱する様子は、日本語ロックが完全に市民権を得たことの証でもあった。
筆者が彼らに注目したのは、日比谷野音でのイベントで彼らのステージを観たときだった。その演奏は圧倒的で、同時代のモノトーンなパンク・ニューウェイヴのバンドたちとは明確に一線を画していた。新井田耕造と小林和生のリズム隊は重厚かつ歯切れよく、そこに忌野のヴォーカルが絡むことで、唯一無二のサウンドが立ち上がっていた。梅津和時のサックスもまた、和の情緒を漂わせるような味わいを添えていた。
1982年、アルバム『BEAT POPS』がオリコン2位を記録し、RCサクセションは名実ともに日本を代表するロックバンドとなった。忌野清志郎は、奇抜なファッションや髪型でも注目を集め、ロックアイコンとしての存在感を一層強めていく。しかし、彼らは音楽雑誌へのインタビューには消極的で、筆者もようやく1985年『HEART ACE』リリース時に、一度だけ忌野へのインタビューにこぎつけた。その際の忌野は、地味な服装に太いメガネと、ステージ上の華やかさとはまるで別人のようだった。
インタビューでも彼は多くを語らず、受け答えは控えめでそっけなかった。だが、その中に時折光るユーモアや毒舌――たとえば「チャボのアルバムが売れてもオレには一銭も入らないから売れないほうがいい」といった発言――が、彼の人柄の奥行きを垣間見せた。また、この時期、RCサクセションとは別に、忌野は"DANGER"という別ユニットでの活動も展開しており、梅津和時たちとともにより自由な表現を試みていた。これらのソロ的な動きは、バンドとは違った角度から忌野の音楽観を表現する場でもあり、RCの活動とは好対照をなしていた。
メンバー同士の軽妙な毒舌の応酬も魅力であり、それが笑いの種として共有されていたのもRCらしさの一つだった。筆者は彼らのそうした空気感に、どこかビートルズ的な軽やかさと知的な遊び心を感じていた。忌野清志郎は、ステージ上のスター性と、素顔の親しみやすさを併せ持った稀有な存在であり、その二面性こそが彼のカリスマ性を支えていたのかもしれない。
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