Friday, December 19, 2025

見えない飢えを映す田畑 日本の農地改革プランと自給率四割の時代(2008年前後)

見えない飢えを映す田畑 日本の農地改革プランと自給率四割の時代(2008年前後)

二十世紀後半から二十一世紀初頭にかけて、日本の食卓は豊かになったように見えながら、その足元では静かに土台が痩せ細っていった。カロリーベースの食料自給率は、一九六〇年頃には八割近かったものが、二〇〇〇年代には四割前後まで落ち込み、その水準のまま長く停滞していた。米の消費は減り、肉や油脂を多く使う食事が広がる一方で、それを支える飼料穀物や大豆の多くは海外からの輸入に頼っていた。スーパーの棚は色とりどりだが、その背後では、外の世界の穀物市場と海上輸送に日本の胃袋が深くつながれているという、目に見えない危うさがじわじわと広がっていた。

二〇〇七年から二〇〇八年にかけて、世界の穀物価格が急騰し、同時に原油価格も上昇したことで、その危うさは一気に可視化された。パンや油の値上がりがニュースをにぎわせ、もし輸入が途絶えたらという問いが、机上の空論ではなく現実味を帯びて語られるようになる。その一方で日本国内では、米は余っているとして長年にわたり減反政策が続き、水田の大きな割合が作付け転換や休耕に回されていた。米は作り過ぎだから作るなと言われつつ、飼料や小麦や大豆は輸入に依存するという、捻じれた食料構造が批判の的になっていた。

こうした状況のなかで、農林水産省が打ち出したのが農地の有効利用を進める農地改革プランである。方針の中核には、細かく分散し、担い手の高齢化で耕作放棄地も増えつつあった農地を、意欲と能力のある担い手に集めていくという考え方があった。ばらばらの田んぼを束ね、規模と効率を高めることで、国産の麦や大豆、飼料作物、飼料用米などの生産を増やし、輸入依存をわずかでも減らそうとしたのである。あわせて、企業が賃借という形で農業に参入しやすくする制度改正も進められ、遊休農地を地域の中で回しながら活用していく枠組みが模索された。

しかしこのプランは、現場の農家にとっては期待と不安が入り交じるものでもあった。農地を集積すると言われると、小規模農家や中山間地のように条件の悪い地域が切り捨てられるのではないかという疑念が生まれる。大規模化や企業参入が進めば、経営としての農業は強くなるかもしれないが、村の祭りや用水路の管理といった、農地を支えてきた共同体の仕事は誰が担うのかという問いも浮かぶ。自給率を上げると掲げながら、実際には採算性の高い作物や輸出向け農産物の方へ力が傾くのではないかという見方もあった。

世界的な不況と円高の影響で、一時的には肥料や飼料の国際価格が落ち着いたとしても、それは嵐の合間の静けさにすぎなかった。輸入穀物に大きく依存する構造が変わらない限り、為替や国際相場の波が押し寄せるたびに、農家の経営も国民の食卓も揺さぶられ続ける。その危機感が、農地を守るだけではなく、農地をどう使い直すかという発想へと、農政の重心を少しずつ動かしていったのである。

農地改革プランは、壮大な理念と、細かな現場の事情とを、同じ紙の上に無理やり書き込んだような存在だったと言えるかもしれない。農地の集積と効率化という言葉の陰には、高齢の農家が自分の田んぼをどう託すかと悩む姿があり、一方で、放っておけば草に覆われていく田畑をどうにか再び耕したいという若い担い手の願いもあった。自給率四割という数字は、そのせめぎ合いの只中で掲げられた旗であり、どこまで現実に近づけるかは、その後の十年、二十年を通じて問われ続けていくことになったのである。

No comments:

Post a Comment