『赤い風船』――ふいに空へと放たれたもの(1973年)
加藤登紀子の「赤い風船」は、1973年のアルバム『愛のくらし』に収められた詩的な作品である。その穏やかな旋律と語り口には、どこか遠い記憶を呼び起こすような温もりがありつつ、ふとした瞬間に、深い喪失の影が差す。
「赤い風船が 空へと飛んでいった」
その一節は、夢や希望の象徴としての風船が、静かに、しかし取り返しのつかない仕方で空へと解き放たれる様子を描く。けれどもその背景に、私たちはこうも読める――それはある日突然、道ばたで"ふいに"放たれたものではなかったか、と。
1970年代初頭、日本は高度経済成長の真っただ中にあった。マイカーの普及が進み、都市部の道路は急激に膨らむ車の流れに対応しきれず、交通事故が急増していた。1970年、日本全国の交通事故死者数は1万6千人を超え、当時としては世界最悪水準だった。横断歩道のない生活道路、信号のない交差点、舗装されきらない歩道――日常の風景に潜む死角は、数え切れない。
そんな時代、子どもたちは家の前で風船を飛ばしていた。親の目を離れた一瞬に、自転車や乗用車が通りすぎる。そして、誰も気づかないうちに、風船だけが空に浮かんでいる。
加藤の「赤い風船」は、その時代の空気の中で生まれている。直接的に事故を語らずとも、歌詞の行間には、"もう戻らないもの"への哀惜が滲む。それは、彼女自身の人生に刻まれた別れであり、同時に、当時を生きる誰もが経験しうる、理不尽な別離への鎮魂でもある。
風船は風に乗って高く舞い上がる。見送る目には涙はない。ただ、空を見上げて立ち尽くすことしかできない。そうした時間の断絶こそが、この歌の核心なのかもしれない。
そして私たちは今も思う。あの赤い風船は、どこで、誰の手から離れたのか。答えのない問いを胸に、風の向きを感じながら、黙って空を見上げるのだ。
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