燕尾服の誇り、赤城に響く声――東海林太郎という戦前日本の肖像(明治31年~昭和47年)
昭和初期、日本の音楽界は西洋音楽と浪曲、そして新興の歌謡曲が入り混じる激動の時代にあった。東海林太郎は、そんな混沌と革新のただなかに、ロイド眼鏡と燕尾服という異様なほど整った姿で現れた。姿勢は不動、発声は堂々、まるで軍楽隊の指揮者のように、マイクに向かってクラシックの発声で歌い上げる姿は、昭和の「理想的男性像」として人々の脳裏に刻まれていった。
彼は早稲田大学商学部を卒業し、南満州鉄道に勤務するという、当時としては絵に描いたようなエリートだった。しかし心の奥底に宿した歌への情熱を抑えることができず、音楽コンクールに応募して入賞。やがて歌手への道を歩み始めた。そして昭和9年、「赤城の子守唄」が大ヒットし、彼の名は全国に知れ渡ることになる。
その後、「国境の町」「旅笠道中」「野崎小唄」と続けざまにヒットを飛ばし、昭和10年には一年間で107曲を吹き込むという驚異的なペースで作品を発表。「東海林時代」と呼ばれるほどの一時代を築き上げた。昭和14年には代表曲『名月赤城山』を発表し、「男ごころに男が惚れて」という歌い出しは、日本男児の心意気を代弁する言葉として広まった。
この時代、日本はすでに日中戦争の泥沼に足を踏み入れ、国家の空気は徐々に戦時色を帯びていた。東海林の歌は軍歌ではなかったが、その武骨で凛としたスタイルは、むしろ軍人以上に軍人的であり、義理と情、誠実さを歌うその姿は、国民の理想と重なっていった。
だが彼の人生は、光に満ちた舞台の裏で、病との闘いでもあった。昭和13年に直腸ガンの手術を受けて以降、昭和30年、39年と度重なる手術に見舞われ、ついには直腸を全摘。彼は人工肛門(オストメイト)となりながらも、ステージに立ち続けた。腹には晒を巻き、顔には化粧を施し、誰にも悟らせずに、客席にその美声を届け続けた。
昭和22年、東京浅草の国際劇場で「歌謡生活25周年記念公演」を開催し、健在ぶりを示したが、それ以降の舞台は常に病と隣り合わせだった。それでも彼は歌い続けた。歌手としての矜持を捨てることなく、燕尾服の裾を整え、最後まで譜面に忠実に、声に誠実に、人生を歌に捧げた。
東海林太郎の存在は、まさに「昭和という時代」の結晶であった。クラシックと浪曲、モダンと忠義、教養と演歌的情緒という一見相反するものを内包し、なおかつ人々の心に深く響く歌を残した。彼の姿は、遠い過去のものとなったいまも、夜空に浮かぶ赤城山の名月のように、凛として記憶の中に在り続けている。
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