上原敏 ― 道中唄に散った青春の声(昭和12年~昭和19年)
秋田県大館市に生まれた上原敏は、専修大学商学部で学びながら野球部の投手として春季リーグ優勝に貢献するほどの俊才であった。卒業後は製薬会社に就職し、社会人野球で活躍したが、運命は歌の道へと彼を導いた。昭和十二年に発表された「妻恋道中」は、当初東海林太郎が歌う予定であったが、急遽上原に回り、発売されるや四十万枚以上を売り上げる空前のヒットとなった。浪曲の小節を取り入れた独自の唱法は庶民の心に響き、クラシック声楽的な東海林の歌い方よりも親しみやすく、瞬く間に時代の寵児となった。
「妻恋道中」は旅情と義理人情を描いた道中ものの代表作であり、戦前の庶民が憧れる義侠の世界を鮮やかに歌い上げた。東海林太郎の「名月赤城山」や藤山一郎の「酒は涙か溜息か」が同時代に流行していた中、上原の歌はより泥臭く、大衆的な響きを持っていた。その明快で人情味あふれる歌声は、都会よりも地方の人々に強い共感を呼び、昭和前期の歌謡文化に独自の彩りを添えた。
しかし、時代は戦争へと急速に傾いた。日中戦争、太平洋戦争の拡大により、芸能人も前線慰問や出征を余儀なくされる。上原敏も召集され、人気絶頂のままフィリピン戦線へ送られた。昭和十九年、銃後に響いていたはずの歌声は戦火に呑まれ、三十三歳で非業の死を遂げた。もし彼が生き延びていれば、戦後歌謡の中心人物の一人となり、美空ひばり以前の男性歌謡界を支えたであろうと評される。その早すぎる死は、昭和歌謡史における失われた可能性として、今もなお惜しまれている。
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