廃パチンコの炎へ―1995年再生の詩
1995年、日本はバブル崩壊後の景気低迷期にあったが、廃棄物処理と資源循環への関心は高まりつつあった。都市部では産廃処理能力の限界が露呈し、不法投棄や廃棄物の不適正処理が社会問題化。とりわけ、パチンコ業界などで使用される大型遊技機(パチンコ台)は、毎年数十万台が更新され、処分先の確保が難しい「負の遺産」として待ちかまえていた。
この混沌の中、秩父小野田と平和は革新的な試みを始めた。廃パチンコ台を破砕・成形して、セメントの焼成炉用固形燃料として再利用する方式だ。年間四十万台を処理可能とし、その燃料量は石炭換算で約四千五百トンに相当。資源有効利用と廃棄削減の観点から注目された。取り組みでは、回収やコストを遊技機メーカー・平和が負担し、処理場不足や不法投棄への対処を狙った。
さらに、1990年代はリサイクル法制の整備期であり、メーカー責任(EPR:拡大生産者責任)の概念が徐々に社会に浸透し始めていた。こうした法制度の流れを先取りする形で、遊技機メーカーによる廃機器回収・リサイクル体制の構築はモデルケースとなる可能性を秘めていた。将来的には対象地域を拡大し、他社にも展開を視野に入れた構想が語られていた。
この事例は、90年代半ばの日本が抱えていた「大量廃棄時代」の矛盾と、「循環型社会」への転換願望とを象徴するものと見ることができる。技術と制度、企業責任と社会ニーズが渾然一体となり、廃棄物が炎のように再び価値を生む可能性を開いた挑戦の記憶である。
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