Wednesday, September 24, 2025

倉持忠助と侠商論 ― 1920年代の商人観と政治利用の警戒

倉持忠助と侠商論 ― 1920年代の商人観と政治利用の警戒

1920年代の日本は都市化と大衆社会の拡大の中で行商人や香具師といった移動商人層が社会的に存在感を増していた。こうした人々は「侠商」と呼ばれることがあり義理や任侠精神を重んじる商売人として社会に位置づけられた。しかしこの言葉には時に理想化や美化が含まれ政治的に利用されやすい危うさを孕んでいた。

東京市議を務めた倉持忠助はこの「侠商」という言葉を嫌い自らを「小資本の実業家」と定義した。彼は商人としての現実的な立場を強調し単なる浪花節的な美談に押し込められることを拒んだのである。背景には第一次世界大戦後の不況や震災後の混乱があり都市下層の商人層は経済的にも社会的にも不安定な立場に置かれていた。にもかかわらず彼らを「侠商」として一括りにし美名で包み込むことは実際の困難や矛盾を覆い隠す危険があった。

全国行商人先駆者同盟が崩壊した後に登場した大日本神農会は「侠商六十万人の団結」を掲げ政治的スローガンとして香具師や行商人を動員しようとした。しかし倉持はこれを警戒し香具師の存在が政治的道具にされることを危惧した。彼は香具師や小規模商人の「純粋さ」を守ることが重要であると考え外部からの過度な理想化や利用に強く反発したのである。

この姿勢は大正デモクラシー期の自由主義的議論とも響き合っていた。庶民の商人を義侠心で飾り立てるよりも社会的基盤を支える小資本の現実的存在として評価することが彼にとっての本質であった。倉持の発言は任侠と商売が交錯する香具師社会をめぐる政治的駆け引きの中でイデオロギーよりも現実を優先する態度を示している。

こうして彼の「侠商論」は香具師や行商人を政治的に利用しようとする動きに抗する立場であり社会運動や任侠思想が交錯する1920年代において現実主義的なブレーキの役割を果たしたのである。

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