仁義とメンツウ ― 1920年代の香具師社会における信頼と連帯
1920年代の香具師社会には「メンツウ」と呼ばれる独特の自己紹介の慣習が存在した。これは下層労働者が用いた「仁義」と同根のものであり文字を十分に読めない人々が口頭で自己の素性や立場を明かし合う文化から広まったとされる。香具師の世界でも初対面の場でこの「メンツウ」を交わすことによって互いの身分や背景を確認し漂泊的な生活を送る者同士が信頼関係を築く基盤となった。
当時の日本は都市への人口流入や農村の困窮によって下層労働者が急増し日雇いや行商といった不安定な生業に従事する人々が社会の周縁に広がっていた。こうした人々は公的制度に守られず互いの絆を確かめることでしか安心を得られなかった。香具師社会の「メンツウ」はこのような時代背景の中で重要な役割を果たしたのである。
さらに「メンツウ」の文化は社会主義運動における宣伝活動にも応用された。大正デモクラシー期に広がった労働運動や小作争議は下層労働者や漂泊者の参加を得て拡大していったがその過程で「仁義」や「メンツウ」といった慣習的な口頭伝達の仕組みが思想の普及を助けた。印刷物や新聞が十分に行き渡らない層に対して口頭でのやり取りは極めて有効な手段であり思想と文化が結びつく場面でもあった。
こうして「仁義」と「メンツウ」は香具師や下層労働者の間に信頼を築く装置であると同時に社会主義思想の裾野を広げる実践的なツールとなった。形式ばらない口承文化が政治的な動員力を持ち得た点にこの時代特有の社会的ダイナミズムが表れているといえる。
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