Friday, September 19, 2025

郷愁の声 ― 霧島昇と「誰か故郷を想わざる」 1930年代~1960年代

郷愁の声 ― 霧島昇と「誰か故郷を想わざる」 1930年代~1960年代

霧島昇は大正2年生まれ、戦前から戦中にかけて日本人の心に寄り添った歌声を響かせた歌手である。東京音楽学校で声楽を学び、やがて作曲家古関裕而の作品を歌うことで頭角を現した。昭和15年に発表された「誰か故郷を想わざる」は、中国戦線に送られた兵士や故郷に残された家族の思いを重ね合わせた楽曲で、戦時色の濃い時代にあって涙を誘う抒情歌として広く親しまれた。

当時、日本は日中戦争から太平洋戦争へと突入し、国民生活は厳しい統制の下に置かれていた。歌謡曲もまた国策に沿った軍歌や愛国歌が主流となり、霧島昇も「暁に祈る」や「若鷲の歌」といった作品を歌い、戦意高揚の役割を担った。しかし彼の歌声は、単なる鼓舞にとどまらず、兵士や庶民が抱く「故郷への想い」を代弁するものであり、慰めと郷愁を与えた点に特色がある。

代表作「誰か故郷を想わざる」は、戦時下の楽曲としては異色であった。戦意を鼓舞するのではなく、失われた日常や故郷を想う心情を淡々と歌い上げることで、戦地の兵士にも残された家族にも強い共感を呼んだ。流行歌が国家統制の道具となる時代にあって、この曲は人間の普遍的感情を映し出す抒情歌として特別な位置を占めた。

戦後、日本社会は廃墟からの復興に向かい、ラジオや映画とともに新しい歌謡曲の潮流が起こった。その中で霧島の唱法はやや古風とされ、藤山一郎や岡晴夫といった戦後型の歌手に主役の座を譲ることになる。しかし彼の温かみある声は、戦中世代にとって忘れがたい響きであり、故郷や家族を思う心情を歌に刻んだ存在として長く記憶された。

同世代の藤山一郎が明朗なテノールで「青い山脈」に象徴される青春と希望を歌い、岡晴夫が庶民的な明るさで戦後復興を支えたのに比べ、霧島昇は戦中の影と郷愁を刻み込む歌声で特色を示した。彼の芸歴は、日本歌謡史における「戦時と郷愁」の象徴といえる。戦時体制の下で生まれた名曲が、戦後の混乱期にあってなお人々の心を支え続けたことは、彼の歌声が時代を超えて普遍的な感情を呼び起こす力を持っていたことを物語っている。

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