夜更けの体温と新宿の輪郭 1970年代のジャズという居場所
誌面の場面は、職安通りの近くでジャズを肴に飲む一夜。場所が新宿であることがまず重要です。一九六五から六六年に開いた新宿ピットインは、日本のモダンやアヴァンギャルドを吸い寄せる拠点になり、六〇年代末から七〇年代にかけて新宿は音と人が渦を巻く都市の実験場でした。店内はステージ正面に客席が並び、音楽最優先の作り。のちに東京のヴィレッジバンガードとも呼ばれるその空間は、会話も演奏の余韻に合わせて揺れる磁場だったのです。
同じ時期、日本には聴くための場所としてのジャズ喫茶が広がり、七〇年代が最盛期となりました。レコードの大音量再生に耳を澄ます純度の高い聴取があり、もう一方には酒とともに生演奏に身を預けるライブハウス文化が育つ。新宿の夜は、この二つの文脈が重なり合う場所でした。
誌面に出てくる店名表記ボディオソウルについては、当時の書きぶりや記憶の揺れの可能性があります。東京の老舗ボディアンドソウルは一九七四年に創業し、長く南青山のちに渋谷へ移転に店を構え、日本を代表するクラブとして国内外のミュージシャンが集った拠点でした。職安通り至近という位置づけではないため、本文が指すのは別の店か、あるいは呼称の揺れと考えるのが妥当です。いずれにせよ、酒とともにジャズを聴く型の店が都内各所に成立していたという文脈は一致します。
職安通りそのものも、七〇年代に新宿北側の生活圏を特徴づけた動脈でした。新大久保界隈には六〇年代後半から在日コミュニティが形成され、七〇年代の職安通りは金融機関を含む往来の拠点に。のちのコリアンタウン化以前から、多文化が交差する夜の街の気配がすでに生まれていました。この通りの近くでグラスを傾けながら聴くジャズは、そうした都市の変化と呼応していたのです。
時代背景をもう一歩だけ広げると、七〇年代半ばの新宿は副都心化と歩行者空間の整備が進み、人の流れがさらに膨張しました。駅周辺の地下連絡通路が一九七五年に開通し、夜の出入りも含めて街の回遊性が上がったことは、ライブハウスや酒場の賑わいを後押しします。頁の隅に書かれた店名が、そのまま都市の記憶の栞になる、そんな時代です。
要するに、この一節が伝えるグラスの縁と同じ高さで転がる会話とは、六〇から七〇年代に新宿が育てた聴く場所の文化史そのものです。ピットインに象徴されるステージ至上の場、ジャズ喫茶の集中聴取、そして酒とともに音を味わう店。職安通りの夜気を吸い込みながら、文学者たちの言葉は音の余韻と混じり合い、七〇年代東京の都市感情をそのまま響かせていました。
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