芸能人と歌手の活動―野坂昭如の歌手デビュー(1970年代前半)
1970年代前半の日本社会は、高度経済成長の終盤にあり、石油ショックを目前にしながらも、まだ街には豊かさの象徴であるテレビやステレオが広まり、音楽や芸能が庶民生活の大きな楽しみとなっていました。その中で、文壇から異色の存在が芸能界に飛び込んだのが作家・野坂昭如です。
野坂は、戦争体験を題材にした『火垂るの墓』や直木賞受賞作『アメリカひじき』などで知られる文学者でしたが、彼の活動は文学にとどまらず、テレビのコメンテーターやコラムニストとしても強烈な個性を発揮していました。そんな野坂が、さらに「歌手」として表舞台に立ったのは、当時の文化的風潮を映し出す出来事でした。1970年代は、芸能と文芸、政治と大衆文化が入り混じり、クロスオーバーする時代で、野坂の芸能界進出もその象徴といえます。
彼が発表したカンドアルバム(感度アルバムと宣伝されたもの)は、文学的な言葉遊びと大衆的な歌謡の要素を組み合わせたユニークな作品でした。野坂は決して美声の持ち主ではなく、むしろしゃがれ声に近い歌唱でしたが、その飾らない声質が「文学者が自らの言葉を歌う」というスタイルと相まって、かえって人々に強烈な印象を残しました。これは、同時期に流行したフォークソングやプロテストソングの「歌はうまさではなくメッセージで聴かせる」という風潮とも響き合っていました。
1970年代初頭の芸能界は、テレビの歌謡番組が黄金期を迎え、アイドル歌手や「花の中三トリオ」が台頭する一方で、加藤登紀子や岡林信康らが社会派フォークで存在感を示していました。野坂の歌手活動は、そのいずれにも属さない「作家の自己表現」として異彩を放ち、新聞や雑誌にも大きく取り上げられました。また、彼の奔放な言動は「文壇の異端児」から「芸能界の異端児」へとつながり、時代の好奇心を刺激しました。
こうした動きは、芸能界における境界の曖昧化を象徴していました。作家や知識人が芸能の舞台に立つことは、文化の大衆化と同時に、芸能界の多様化を推し進めるものでもあったのです。野坂昭如の歌手活動は、単なる余技ではなく、1970年代という「大衆文化の奔流」の中で、文芸と芸能の垣根を越えた一つの試みだったといえるでしょう。
No comments:
Post a Comment