### 退廃と華やぎの肖像 ― 沢田研二と1970年代
1960年代末、グループ・サウンズの熱狂のただ中に登場した沢田研二は、ザ・タイガースの甘美な歌声で一躍スターとなった。ビートルズに憧れ、洋楽の風を纏ったその姿は、新しい時代の青春像と重なり、十代のファンの心をつかんだ。やがてGSブームが終焉すると、彼は萩原健一らとPYGを結成し、ニュー・ロックへと歩を進めた。ここに、アイドルから表現者への変貌の萌芽があった。
1970年代は、日本経済が高度成長から一転し、オイルショックによる停滞と不安が国民生活を覆った時代である。テレビは娯楽の王者となり、歌番組が家庭の夜を支配した。沢田のソロ活動は、その舞台を最大限に活かし、華やかで演劇的な演出を駆使して大衆を魅了した。1972年「許されない愛」は禁忌の情念を歌い、73年「危険なふたり」は都会的な愛の刹那を刻んだ。75年「時の過ぎゆくままに」は、倦怠と情熱の狭間を漂う男の姿を映し、ドラマと一体化して国民的ヒットとなった。
とりわけ1977年「勝手にしやがれ」は決定的である。ハットを投げ捨てるパフォーマンスは視覚的衝撃となり、その年の日本レコード大賞を受賞。沢田の存在は単なる歌手ではなく、舞台芸術を背負う総合的な表現者となった。79年「カサブランカ・ダンディ」では洒脱な酔いどれ男を演じ、80年「TOKIO」では近未来的なイメージで自らを更新し続けた。代表作群はいずれも、阿久悠の歌詞、大野克夫らの作曲と結びつき、都会的な耽美と大衆性を兼ね備えていた。
彼の同時代には、フォークの吉田拓郎や井上陽水が"内面の声"を歌い、五木ひろしが艶やかなムード歌謡を確立していた。森進一は演歌で庶民の哀感をすくい、美川憲一は個性と艶麗さで挑んでいた。そうした同世代の中で、沢田は「退廃を華やぎに変える力」を独自の武器とした。歌謡曲がテレビ映像と結びつき、スターが視覚的に消費される時代において、彼ほど衣装と所作を巧みに操り、演劇的な物語性を作品に託した歌手はいなかった。
俳優としての活動も同時期に光る。1979年『太陽を盗んだ男』では、平凡な理科教師が原爆を自作して国家を揺さぶるという異様な役柄を演じ、社会の不信感や虚無を体現した。歌と芝居の双方において、沢田は時代の影を色気へと転化し、ブラウン管を通じて日常の鬱屈を一瞬で反転させる象徴となった。
こうして1970年代の沢田研二は、経済停滞とメディア成熟の交錯する時代にあって、音楽と視覚表現を結びつけた総合的スターの姿を提示した。同世代の歌手たちがジャンルを代表する顔となる中、彼は時代の不安を艶と演出に変え、大衆に夢と一夜の逃避を与え続けたのである。
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