Monday, September 29, 2025

「幻影の群衆 ─ 2010年代中盤~後半:IRAとSNS工作の時代」

「幻影の群衆 ─ 2010年代中盤~後半:IRAとSNS工作の時代」

ソーシャルメディアが急速に普及した2010年代、言論空間は民主主義の新しい舞台として拡張された。しかし同時に、それは国家による世論操作の温床ともなった。ロシアのサンクトペテルブルクに拠点を置くインターネット・リサーチ・エージェンシー(IRA)は、こうした動きを象徴する存在である。2013年前後から活動を本格化させたIRAは、数百人規模のスタッフを抱え、米国の選挙や社会対立を狙った大規模な心理戦を展開した。

IRAが注目されたのは、SNS上に「ハート・オブ・テキサス」や「ユナイテッド・ムスリムズ・オブ・アメリカ」といった架空団体を設立し、現実の市民運動を装って活動したことだった。移民や宗教、黒人差別など敏感なテーマを利用し、対立を煽る投稿を繰り返した。2016年にはヒューストンで反イスラム集会とイスラム擁護集会を同時開催させ、市民同士の衝突を現実に引き起こした。サイバー空間の虚構が、街頭の怒号と対峙に変わるその瞬間、情報戦の危うさが露わになった。

当時、フェイスブック広告は低コストで広範なリーチを可能にしていた。IRAは広告運用と偽プロフィールを駆使し、ジオターゲティングによって特定の地域や属性に合わせた扇動を行った。黒人コミュニティには投票ボイコットを呼びかけ、保守層には移民排斥を訴えるなど、異なる集団を分断へと誘導する工作が続けられた。こうした活動は後に米議会で証拠として示され、IRAが何千万回ものインプレッションを生み出していたことが確認された。

スノーデン事件でNSAやGCHQの監視活動が暴露された直後であり、世界はすでに情報インフラの脆弱さを意識し始めていた。そこに加わったIRAの活動は、サイバー戦の新しい形を提示するものだった。アカウントの相互作用を用いて信頼感を演出し、広告と投稿を組み合わせて拡散を仕掛ける。データ分析によって人々の感情を揺さぶる投稿を戦略的に流す。これらの手法は商業広告の技術を政治攪乱に転用したものだった。

もっとも近年の研究では、IRAの投稿が実際に有権者の思想や投票行動を大きく変えた証拠は乏しいとされる。しかし、重要なのはその直接的な影響以上に、情報空間が「武器化」され得ることを示した点にある。司法当局は複数の関係者を起訴し、米露関係はさらに緊張を深めた。

2010年代中盤から後半にかけて、IRAのSNS工作は、冷戦時代の宣伝戦をデジタル技術で刷新した姿として現れた。虚構の群衆が街に集い、分断が現実社会に転写される。これは単なる選挙介入ではなく、21世紀的な「見えない冷戦」の象徴であり、民主主義の基盤に突きつけられた深刻な問いであった。

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