ベルクソン「創造的進化」第2章 生命進化の分岐した諸方向 ― 二十世紀初頭
えっとですね、ベルクソンの「創造的進化」第2章は「生命進化の分岐した諸方向」、すなわち動物と植物の分岐、さらには知性と本能の分岐を扱っています。第1章が無機物と有機物の違いを論じたのに対し、第2章は進化が二つの大きな道に分かれていく過程を描き、続く第3章で本能と知性が本格的に検討されるため、ある意味で第2章こそ進化論全体の中心的位置を占めると言えます。
ベルクソンは、動物と植物を分ける基準を栄養の取り方に求めます。植物は動かずとも光合成によって栄養を取り込み、動物は動かねば栄養を得られません。ここから動物は運動と感覚の発達へ、植物は光合成の仕組みへと進化の方向を分けたのです。動けば動くほど意識は鮮明となり、動物は神経と運動器官を発達させました。植物は動かないゆえに意識は不鮮明であるが、動物は生き延びるために常に動かねばならず、その結果意識がはっきりとした形で形成されたのです。
ここでベルクソンはアリやミツバチの社会と人間の社会を比較します。昆虫は本能に基づき、極めて限定された行動しかできません。例えばアリはアリの仕事しかできず、ハチはハチの営みしかできない。しかし人間は言語を媒介に社会を組織し、運動や感覚を外部化して複数の機構を組み合わせることが可能になりました。これが動物と人間の決定的な差異です。
進化を目的論的な計画とみなすのは誤りである、とベルクソンは言います。もし計画があるならば進化が進むにつれ調和が増していくはずですが、現実には不調和が増していきます。調和は未来にあるのではなく、むしろ背後にある。生命が統一されていた起点に調和はあり、分岐が進むほど不調和が広がる。したがって進化の道筋を「計画」と呼ぶことはできないのです。
また、有性生殖の問題も取り上げられます。動物も植物も共に有性生殖を備えていることは、生命が一つの統一体から分岐していった証拠であるとされます。動物は感覚と運動の極端な発達によって「エネルギーの蓄積と爆発」を特徴とし、その末端に位置する人間は、道具を作り、無機物を用いて有機的な働きを模倣できる存在へと至りました。これにより人間は単なる動物の一機能に縛られず、複数の運動機構を組み合わせ、意識を解放する可能性を持ったのです。
ここで知性と本能の差異が浮かび上がります。本能は生命の内側を向き、習わずとも自然に行動を導きます。しかしそれは生物ごとに固定され、限定された行為しかできません。一方、知性は外部に向かい、物質や幾何学を介して運動を再現します。映画のフィルムやコンピュータのクロックのように、知性は生命のリズムを人工的に模倣できるのです。とはいえ、こうして再構成されたものは本来の生命の躍動そのものではなく、あくまで疑似的な外部的再現にすぎません。
ベルクソンは本能と知性の関係を視覚と触覚にたとえます。本能は生命に組み込まれた触覚的な直観であり、知性は外部化された視覚的な理解です。本能はなぜ学ばずとも行為を導けるのか。それは本能が生命に組み込まれ、常に生の流れに接しているからです。知性は外部化された世界しか扱えないため、本能の本来の働きには到達できません。しかし直観を媒介すれば、知性は再び本能に接近できるのではないか。これがベルクソンの核心的な主張です。
人間の場合、本能は直観へと変質し、芸術や美的感覚の領域に残存しています。芸術においては個体の利害を超え、自らを意識する形で本能が直観へと昇華される。知性が直観に再吸収されるとき、両者は結び合い、より高次の創造性が生まれるのです。
最終的に第2章はこう結論します。人間とは知性を持ち、複数の運動機構を操り、さらにそれを外部化して本能の働きを直観へと昇華できる存在である。その結果、人間は動物が束縛されている運動の制約から意識を解放し、新しい知性の可能性を切り開いていくのだ、と。
No comments:
Post a Comment