Wednesday, September 17, 2025

明治維新後の吉原 ― 自由と規制の狭間(一八七二年~一九五六年)

明治維新後の吉原 ― 自由と規制の狭間(一八七二年~一九五六年)

明治維新を迎えた新政府は、封建制度の改革の一環として明治五年(一八七二)に「娼妓解放令」を公布し、遊女に自由廃業を認めた。これは人身売買的な年季奉公を解く画期的な試みであったが、現実には多くの遊女が親への借金や身請け金の支払いを抱えており、解放令が出ても廃業できない者が大半を占めた。理想と現実の乖離は大きく、吉原は制度上「自由」が与えられながらも、依然として女性の束縛の場であり続けた。

その後、政府は遊廓を全面的に廃止することなく「公娼制度」を整備し、衛生や風紀の監督下に置くことで存続させた。吉原は貸座敷取締規則などの法規に基づき営業を続け、近代都市の歓楽街として発展した。妓楼は和洋折衷の建築を取り入れ、ガス灯や電灯を導入するなど近代化を象徴する施設ともなったが、その華やぎの裏で女性たちは厳しい規律と偏見に縛られ続けた。

明治以降も吉原は「苦界」と呼ばれ、遊女の境遇はほとんど改善されなかった。衛生検査の義務化や警察による取締りは強化されたものの、女性の人権保障にはつながらなかったのである。戦後の混乱期にも遊廓は存続したが、一九五六年の売春防止法施行によってようやく廃止に至り、吉原はその長い歴史に幕を下ろした。こうして吉原は、解放と規制の狭間で女性が翻弄され続けた近代日本の矛盾を象徴する場であった。

No comments:

Post a Comment