Wednesday, September 3, 2025

玉の井の路地―震災後の都市の陰影

玉の井の路地―震災後の都市の陰影

関東大震災(1923年)は、東京の歓楽地を大きく変貌させた。とりわけ浅草や千束町の遊廓は火災で壊滅的な被害を受け、その後再建されることなく消えていった。千束町の空白を埋めるように姿を現したのが玉の井であった。玉の井は公許の遊廓ではなく、いわゆる私娼窟として成立し、震災後の都市再編のなかで増殖していった。

その街は、電気が乏しく裸電球がぽつりぽつりと路地を照らす程度で、暗がりと湿気が支配していた。迷路のように入り組んだ細道は、外部から来た者を惑わせ、閉ざされた空間を形づくっていた。女たちは小さな部屋のガラス越しに顔を見せ、通りかかる男に声をかけた。彼女たちは表面上は自由に見えながら、実際にはその路地に縛られ、都市の影に生きざるを得なかった。

当時の社会背景には、公娼制度をめぐる矛盾がある。公許の吉原が「管理された遊廓」として存在する一方で、玉の井のような非公認の私娼窟は都市の片隅で繁茂し続けた。警察はしばしば摘発を行ったが、需要が尽きることはなく、むしろ震災後の住宅難や貧困が女たちをこの地へ押し込めた。

玉の井は、昭和に入っても文学や映画にたびたび登場した。永井荷風や井伏鱒二らの筆に描かれたその路地は、猥雑さと哀愁、近代都市の表に対する裏の象徴であった。華やかな浅草の歓楽街の影に、湿った玉の井の路地が存在したことは、大正末から昭和初期にかけての東京が抱え込んだ貧困と欲望の矛盾を映し出している。

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