「ベルクソン『創造的進化』」をめぐる全体像――知性の歴史と直観の回復
えーと、まず全体の見取り図から。ここで扱いたいのは、ベルクソンの『創造的進化』が語っている大きな物語――すなわち、生命の流れの中で「知性」がどのように生まれ、どこへ向かって展開してきたのか、という筋道です。ひとことで言えば、本書は進化論を素材にしつつ、「人間の知性に至る道」を描く長い歴史叙述であり、終章(ここでは便宜的に第4章と呼びます)では、古代から近代にいたる知性の営みを哲学史・科学史の観点から照明しています。したがって前半の生物学的叙述と後半の哲学的叙述は、別々ではなく、一本の軸――知性の生成史――で貫かれているわけです。
ベルクソンの特色は、生命の歴史や進化を「完成済みの図式」で説明しきれない、と最初から宣言するところにあります。進化は静的な機械論や目的論に閉じ込められない。だからこそ、彼は"物語(ナラティブ)"の力を借り、時間内でほどけていくプロセスとして生命を描く。ここが、単なる進化論の教科書と違う点で、哲学的な散文にもかかわらず、読者は長編小説のような推進力を感じるのです。生命全体に先行する「全体的な傾向」があり、そこから枝分かれが進み、その最深部に人間の知性が位置づく――この見取り図が、章をまたいで反復されます。
分岐の第一歩として、彼は植物と動物の対照を据えます。植物は基本的に「定着」し、光エネルギーを取り込む仕組みに傾く。一方の動物は「運動」に賵け、外界に働きかけるための感覚‐運動系を高度化させていく。ここで重要なのは、ベルクソンが植物に「意識がない」と言っているわけではない、という点です。むしろ、生命の勢い(エラン・ヴィタル)が異なる方向に分岐した結果として、二つのスタイルが現れた、と描く。つまり、意識の有無ではなく、意識を支える運動様式とエネルギー経済の違いが、植物と動物を分けたのだ、と。
動物の側で加速するのが、感覚‐運動系の複雑化です。動けば動くほど、可能な行為の分解能が上がり、「できること」と「まだできていないこと」の距離がはっきり見えてくる。その"距離を測る力"こそ、ベルクソンの言う知性の明晰さの根源です。人間に固有なのは、ここに道具が介在すること。自らの器官に縛られた運動から解放され、道具を介して"器官外の運動"を織り込めるようになる。水中でも空中でも、直接の解剖学的器官がなくとも、道具と計画によって行為の地平を拡張できる。器官からの相対的自由――これが、人間知性の際立った特徴として強調されます。
他方で、ベルクソンは進化論の周辺で交わされてきた学説にも目配りします。ダーウィンの自然選択、ラマルクの獲得形質、ヴァイスマンの隔離説といった古典的論争に触れつつ、彼は「生命の形態変化を、単なる力学的合成や目的論的図式に還元してはならない」と釘を刺す。無機物の秩序はしばしば"集積"の法則で書けるが、有機体は"分裂と分化"のプロセスが本質であり、その創発は、あらかじめ決まった設計図に忠実な展開としては把握できない、というわけです。筋トレをすれば筋肉は太くなるが、その変化が新しい器官の創設や遺伝を保証するわけではない――この身近なたとえで、彼は「個体の努力」と「系統の進化」を峻別します。
こうした分岐と分化の網の目の深部に、人間の知性が位置づく。けれども、ベルクソンはそれで終わらせません。知性の反対項として「直観」を対置し、両者の関係を生命の上下動(上昇と下降)として描写します。すなわち、意識が上昇する運動の極に直観があり、意識が下降する局面で知性が析出する。下降の局面では、連続した流れが細かく切断され、固定された輪郭として"物質"が現れる。だから「物質」は、生命の運動が瞬間ごとに足を止める地点で析出する像でもある。知性とは、そうした停止や切断を記述することに長けた能力で、幾何学、微積分、因果連鎖の取り回しに卓抜する一方、連続した流れそのもの(持続)を生き生きと掴むのは不得意です。
ここで「第3章」の眼目が立ち上がります。人間における本能は、完全に消えたのではなく、「直観」という形で辛うじて残存している。直観は、持続する流れのうちに飛び込み、対象と共振する仕方で捉える力です。知性は直観の上に架橋できるが、逆に知性から直観へは降りていけない――これがベルクソンの硬い主張。したがって、人間が生命の勢い(エラン)を取り戻すには、知性を直観と結び直す作業が不可欠になる。ここで言う"結び直す"とは、非合理に撤退することではありません。むしろ、知性が切り分けた諸断片をもう一度生きた連続へと接ぐ、という意味です。
では、哲学史・科学史のパート(ここでは第4章)で何が語られるのか。ベルクソンは古代ギリシアから近代に至る「知性の自己展開」を素描します。プラトンやアリストテレスにおける形相と秩序、幾何学的理想、完全な図形への憧憬。デカルト、スピノザ、ライプニッツらが切り拓いた近代科学の幾何化された世界像――空間に展開された諸関係を明晰に捉え、微積分の成立を経て、運動を解析するための強力な装置を手に入れた時代。まだ確率論や統計学的視座が全面化する前段階の「整然さ」を母胎として、知性はその得意分野を磨き切った。しかしベルクソンの眼から見れば、それは"下降の熟達"であって、"上昇の眼差し"を失ってはならない、という警句につながります。
この観点に立つと、「秩序」と「無秩序」の常識的対立も書き換えられます。ベルクソンによれば、無秩序なるものは厳密には存在しない。上昇の局面に固有の秩序と、下降の局面に固有の秩序――二つの秩序が相互にすれ違って見えるとき、人間はそれを「無秩序」と呼んでしまう。エントロピー増大にまつわる俗流の"混沌礼賛"を戒めつつ、彼は、生命的秩序と物質的秩序の交替を正しく見抜け、と促すのです。期待していた秩序がそこに見出せないとき、私たちは「秩序がない」と言うが、実際には別種の秩序が働いている――この言い換えは、彼の議論全体の鍵になっています。
では、人間の固有性はどこにあるのか。すでに触れたとおり、道具の介在によって、私たちは器官の制約から相対的に自由になり、行為の可塑性を飛躍的に高めました。知性は分岐の最深部で生まれただけでなく、その後も自己をさらに分化させ、抽象のレベルを下へ下へと掘り進めていく。だが、掘り進めるほどに生命の勢いが痩せる危険がある。だからこそ、直観との往還が要る。直観から知性へは橋が架かるが、知性から直観へはあまりに勾配がきつい。ならば、知性は自らの根(直観)に定期的に触れ直し、切断の作業で生じた"粉末"を、もう一度"流れ"へと戻すべきだ――これが、彼の人間論の実践的な含意です。
ここまでを進化論的スケッチへ戻してまとめれば、つぎの三点に尽きます。第一に、生命の歴史は、あらかじめ用意された設計図の逐語的な再生ではなく、持続の内部での創造的分岐である。第二に、人間の知性は、その分岐の最深部で"切断と固定"に長ける力として生まれ、道具を通じて行為の地平を拡張してきた。第三に、直観は消えたのではなく、知性が忘れた"連続"に触れさせる入口として持続している。ゆえに、知性と直観の往還を取り戻すことが、生命の勢いを枯らさないための条件になる。
最後に、本書が宇宙論的な余韻を残す点にも触れておきます。ベルクソンは、地球の条件がたまたま植物と動物のこのような形態を作ったにすぎず、生命の傾向そのものは、より広い宇宙に普遍的である可能性を示唆します。上昇の局面ではエネルギーが蓄えられ、下降の局面で放出される――この呼吸のような往還が、どの世界においても生命を規定するのではないか、と。私たちが「物質」と呼ぶものは、この往還の"停止点"で見える影に過ぎない。だから、物質世界を縫い合わせる知性の技術(幾何学・因果・微積分)を磨くことは必要だが、それだけでは生命の物語を語り切れない。直観がひらく連続の時間(持続)を、定期的に生き直すこと――それが、知性の歴史を正しく次へつなぐ、彼の提案だったのです。
以上、ベルクソン『創造的進化』の「流れ」を、分岐と往還、上昇と下降、知性と直観という軸で素描しました。生物学的素材と哲学的省察が互いに補い合い、最終的には人間の課題として「知性を直観に結び返す」実践目標が据えられる。読書案内としても、思考の設計図としても、ここに本書の核があると考えます。
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