吉原の火事と仮宅 ― 江戸時代
江戸の町は大火が頻発する都市であり、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほどであった。特に木造建築が密集する吉原は火災の危険に常にさらされ、度々全焼の憂き目に遭った。楼主の中には火事をむしろ好機とみなし、老朽化した楼の建て替えや負債整理、新規の出発に活かそうとする者もいた。火事は災厄であると同時に経済的再生の契機でもあったのである。
火災後には「仮宅営業」が行われ、焼け出された遊女や楼主は簡易な建物で営業を続けた。しかし待遇は劣悪で、華やぎを失った環境は客層の質を下げ、特に高級遊女には屈辱と感じられた。彼女たちは一日も早い本格的な吉原復帰を望んだ。一方で下級遊女にとっては監視が緩む仮宅の生活が一時的な自由を意味することもあったが、再建が進めば再び厳格な規律に戻される運命にあった。
当時の江戸は「循環型都市」とも呼ばれ、大火と復興を繰り返しながら発展した。吉原もまた火災によって破壊と再生を重ね、そのたびに新たな姿をまといながら存続し続けた。火事と仮宅は、都市文化と遊廓制度の両面を象徴する出来事であった。
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