公娼制度と吉原 ― 明治時代から大正期
明治維新後、新政府は1872年に娼妓解放令を公布し、遊女に形式的な自由廃業を認めた。しかし多額の借金や身請け金を抱えた女性が多く、実際に解放を選べる者は限られていた。吉原は結局、公娼制度の下で存続し、国家の衛生政策と風紀管理の対象となった。近代化を象徴する洋風建築や電灯を備え、外観は華やかさを増したが、遊女の生活は依然として年季奉公と借財に縛られた苦界であった。
さらに公娼制度は国家による管理売春の形をとり、遊女には定期的な性病検査が課され、警察の監督下に置かれた。これは衛生維持の一環であると同時に、遊女の束縛を制度的に強化するものでもあった。社会的には「必要悪」とされつつも、道徳的批判の対象となり、吉原の存在は常に矛盾を抱えていた。
こうして吉原は文明開化の華やぎをまといながらも、旧来の拘束と差別を残した場として近代に生き残った。その姿は、近代化の進展と人権意識の遅れを同時に映し出す、日本社会の縮図であった。
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