Saturday, May 17, 2025

自治が動いた日――岐阜・御嵩町から始まる産廃連携の挑戦(2000年12月)

自治が動いた日――岐阜・御嵩町から始まる産廃連携の挑戦(2000年12月)

2000年当時日本は"廃棄物処理の臨界点"を迎えていた。バブル経済の崩壊から約10年、建設残土や産業廃棄物の量は急増を続ける一方で、最終処分場の逼迫と不法投棄の増加が深刻な社会問題となっていた。地方自治体では、処分場建設を巡る住民との対立が各地で噴出しており、その数は全国で500か所以上に達していたと報告されている。

とりわけ問題を複雑にしていたのは、1970年代に整備された旧・廃棄物処理法の構造的欠陥である。この法律のもとでは、産業廃棄物の処分場についての立地制限が非常に緩く、許認可権限の大半が都道府県に集中していた。一方で、実際に処分場の建設や稼働に伴って最も影響を受けるのは、処分場が設けられる市町村の住民である。にもかかわらず、その市町村には拒否権も事前協議の法的義務もなかった。こうして多くの地方自治体が、住民と業者のはざまで板挟みとなり、"制度の盲点"に苦しむこととなった。

この矛盾にいち早く声を上げたのが、岐阜県可児郡御嵩町だった。御嵩町は、それまでにも産業廃棄物処理施設の建設問題で長年苦しんでいた自治体である。1995年には町内で産廃処理施設建設計画が持ち上がり、大規模な住民運動が発生した。町は住民側に立ち、独自条例によって開発を阻止。その姿勢は「住民と自治の対抗モデル」として全国に知られるようになった。

こうした経験を土台に、御嵩町は2000年に「全国産廃問題市町村連絡会」を設立。同会は、産廃問題に直面する市町村を横断的につなぐネットワークとして、日本で初めて制度化されたものであった。御嵩町はその事務局を担い、情報交換や政策提言の場を全国規模で提供することを目的とした。

この動きは、単なる制度の穴埋めにとどまらない。それは、中央集権的な環境行政に対し、「現場が動くことで法を動かす」という実践的な自治の表明だった。制度の外で傷つき、声なき声として扱われてきた市町村が、自らの経験を武器に、国へと制度改革を突きつける。その姿は、2000年代初頭に始まった「環境と自治の接近」の象徴的な光景であった。

この時代、環境政策は上からの行政誘導ではなく、下からの現場発の声によって形づくられ始めていた。ダイオキシン規制、循環型社会形成推進基本法、家電リサイクル法などが相次いで施行される一方で、それらを支えるのは、住民や自治体の実践的な底力であった。「全国産廃問題市町村連絡会」の誕生は、その象徴として、後の地方分権と環境ガバナンスの展開に深い影響を与えることとなる。

御嵩町という小さな自治体が放ったこの一石は、制度の水面に静かだが確かな波紋を広げていった。市町村連携による産廃問題への対抗――それは、自治体が"管理される存在"から"政策をつくる主体"へと脱皮し始めた瞬間だった。

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