Sunday, May 4, 2025

〈影法師の誇り――家光政権と水野勝成の矛盾〉-江戸初期(寛永年間)

〈影法師の誇り――家光政権と水野勝成の矛盾〉-江戸初期(寛永年間)

江戸幕府三代将軍・徳川家光の治世(1623〜1651)は、徳川政権の支配体制が固まりゆく過渡期であり、「武断」から「文治」への転換が進む時代であった。幕府は諸大名の統制を強化し、天下普請や参勤交代、武家諸法度の徹底運用によって、将軍を頂点とする中央集権体制を築こうとしていた。

だがこの時代にも、中央の支配に抗わずとも、静かに異なる道を歩む地方豪族がいた。水野勝成もその一人である。徳川家康の従兄弟として三河に生まれた彼は、関ヶ原や大坂の陣で戦功を重ねた猛将であり、後には備後福山藩の初代藩主として君臨した。

家光の治世において、幕府は戦を終え、能吏による内政を重んじる時代へと移っていた。それは、かつて刀で道を切り拓いた者たちにとって、自身の存在意義を問い直さざるを得ない局面でもあった。水野勝成は、中央の理に唯々諾々と従うのではなく、地に足の着いた統治を貫いた。その統治は、武威よりも人心に立脚し、町づくりや産業の育成を通じて、福山に生きる民を支えた。

幕府は旗本や御家人の政治的台頭を進め、大名の自立的な意志を徐々に抑え込もうとした。だが勝成は、中央に阿ることなく、藩主としての矜持を守り抜く。彼の姿勢には、武人としての最後の誇りと、政道を知る者の冷静さが同居していた。

家光の力によって幕藩体制の骨組みは完成しつつあったが、その影では、こうした孤高の老臣たちが、静かに一つの時代の終わりと、新たな秩序の始まりを見つめていた。水野勝成の生涯は、家光政権の「影法師」として、中央と地方のはざまで光を放ち続けたのである。

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