Sunday, June 1, 2025

理性の檻と信仰の牢――共産主義と宗教の頑迷性について - 2025年5月

理性の檻と信仰の牢――共産主義と宗教の頑迷性について - 2025年5月

共産主義批判と宗教の頑迷性は、一見正反対の思想体系のようでいて、実は共通する「思考停止の構造」を持っています。いずれも「真理」を語り、理想の社会や魂の救済という名目のもとに、異論や疑問を封じ込める性質を帯びやすいのです。

共産主義は、本来すべての人が平等で搾取のない社会をつくるという理念に発しています。けれども現実の共産主義国家では、レーニンやスターリン、毛沢東といった指導者のもとで、理想を実現するという名のもとに一党独裁体制が築かれました。プロレタリア独裁は、やがて言論・信仰・移動の自由を奪い、批判者を「人民の敵」として処刑する道具に変貌します。さらに経済面では、生産手段の国有化やノルマ制が市場の柔軟性を失わせ、欠乏と硬直をもたらしました。そして最も深刻なのは、道徳や善悪までもが国家の支配下に置かれたことです。宗教は「アヘン」とされ、多くの国で寺院が破壊され、信仰者は「迷信家」として粛清されました。

一方で宗教の側も、精神の自由や倫理の支柱であると同時に、批判に耳を貸さない頑迷さを内包しています。神がそう命じた、経典にそう書いてあるという言説は、理性による議論を拒絶し、反証や反問を無意味なものとします。信者にとっては絶対の真理であっても、それを他者に強要する態度はしばしば暴力や排除を伴います。中世の異端審問や魔女狩り、現代のジハードや宗教的戒律の強制に見られるように、信仰の名による暴力は宗教の頑迷性の典型です。さらに、ジェンダーやLGBT、中絶、進化論など、現代社会が直面する複雑な問題に対して、宗教はしばしば拒絶反応を示し、社会変化を抑圧する側に立ってきました。

興味深いのは、共産主義と宗教がともに「唯一の真理」を掲げる点です。前者は階級闘争と歴史法則、後者は神と経典によって、それぞれ正しさを独占しようとします。そして、異なる意見は「反革命」「異端」として排除されます。これはまさに「思考の停止」つまり、違う問いや新しい解釈を拒む構造そのものであり、全体主義の温床でもあるのです。

思想家たちはこの頑迷性を鋭く批判してきました。ジョージ・オーウェルは小説『一九八四年』で、共産主義的な監視社会が宗教的な洗脳と似ていることを描き、カール・ポパーはマルクス主義を「開かれた社会の敵」として告発しました。ハンナ・アーレントは、全体主義とは「人間の思考する力を破壊するもの」だと喝破しました。

結局のところ、共産主義も宗教も、その起点には人間を救いたいという真摯な動機があったはずです。しかし、一度「絶対的な正しさ」を手に入れたと錯覚すると、他者の問いを許さず、批判を異端と見なしてしまう。その瞬間から、それは思想ではなく、制度化された暴力装置となります。本当に自由な社会とは、「答え」を押し付ける場所ではなく、「問い」を持ち続けることが許される空間です。共産主義と宗教の頑迷性は、私たちにそのことを静かに教えているのかもしれません。

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