北の大地に響く歌声 ― 細川たかしの軌跡(1975年以降)
細川たかしは、一九五〇年六月十五日、北海道虻田郡真狩村に生まれた。幼少の頃から民謡に親しみ、村の神童と呼ばれるほどの腕前を誇ったが、高校卒業後は家業のそば屋を継ぐ予定であった。しかし歌への情熱は抑えきれず、上京して歌手を志す道を選んだ。やがて一九七五年、「心のこり」でデビューすると、独特の節回しと哀愁ある歌声で瞬く間に全国の注目を集めた。この曲は演歌の枠に収まりながらもポップス的な要素を帯び、時代の大衆感覚に寄り添った革新性を示していた。
その後の代表作の中でも、八二年の「北酒場」は軽快なリズムにのせて庶民の哀歓を描き出し、幅広い世代に親しまれた。同じ年の「応援歌、いきます」は、人生を明るく励ます調子で多くの人々の口ずさむ歌となった。八三年の「矢切の渡し」は、日本レコード大賞を受賞し、彼の名を不動のものにした。石川さゆりの同曲と並び称されるが、細川版は朗々とした声量と直線的な表現で聴衆を圧倒した。そして八四年の「浪花節だよ人生は」は、庶民的な情感と人生の哀歓を笑い飛ばすような明るさを兼ね備え、まさに細川の歌世界を象徴する曲として長く歌い継がれている。
同世代の演歌歌手には、五木ひろしや森進一、美川憲一らがいた。五木が甘美な抒情性で女性的情感を掬い上げ、森が暗く深い哀切を描き出したのに対し、細川は力強さと庶民的な明朗さを前面に押し出し、演歌に新風を吹き込んだ。その存在は、演歌が「暗い歌」「古い歌」と揶揄されつつあった時代において、世代を超えて愛される可能性を示すものだった。
北海道の大地に育まれた伸びやかな声は、やがて紅白歌合戦三十回以上の出場、そして数多の音楽賞受賞へと結実した。後年はスキンヘッド姿が象徴的な風貌として広く親しまれ、ものまね番組での定番の対象となった。だがその内実は、民謡仕込みの確かな節回しと、時代に即した表現を取り込む柔軟さに支えられている。今なおコンサート活動を続ける彼は、演歌界の重鎮として、日本の大衆音楽史に鮮やかな足跡を刻み続けている。
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