遊廓の系譜に映る影―吉原から洲崎そして赤線へ(天正から昭和戦後期)
遊廓の始まりは、戦国の余燼がなお燻る天正年間に遡る。小田原の武家が江戸に傾城屋を集め、統制の下で営ませたのが最初とされる。やがて江戸幕府は秩序維持を目的に遊女屋を一区画にまとめ、公許の遊廓とした。寛永年間に吉原が官許を受け、後に新吉原へ移転し、浮世絵や歌舞伎と呼応して町人文化の華やぎを象徴する場となった。
しかし、吉原の内実は華麗な装いとは裏腹に、遊女の生活を徹底的に拘束する制度であった。病と老いが影を落とし、人身拘束の矛盾が近代に入って批判を浴び、廃娼運動の火種となった。大正の頃、作者が遊びを覚えた吉原や洲崎はまだ東京の歓楽を代表していた。洲崎遊廓は江東の水辺に栄え、吉原に並ぶ規模を誇り、川沿いの風景と庶民的な喧噪が一体となって息づいていた。だが関東大震災が両者を揺さぶり、吉原は焼失後に再建されたものの往年の力を取り戻すことはなかった。
戦後になると、売春防止法を前に遊廓は法的に解体され、赤線と呼ばれる特殊飲食店街が新たに姿を現した。吉原や洲崎の周辺も赤線に指定され、飲食店を装って売春が続けられたが、やがて監視の強化とともに幕を閉じる。こうして、天正の小田原から始まる系譜は、公許の吉原、庶民的な洲崎、そして戦後の赤線へと連なり、常に社会の矛盾と都市の欲望を映し続けた。
その流れの中で、大正期の吉原を体験した記憶は、近世から近代、そして戦後へと連なる大きな物語の一断片であり、光と影の交錯を今に伝えている。
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