雑踏の海に揺れる光景 浅草の見世物と都市の影(大正から昭和初期)
大正から昭和初期にかけての浅草は、庶民文化の中心として脈打っていた。活動写真館や芝居、講釈場、玉乗りや花駕敷まで、興行が通りを埋め尽くし、昼前から楽隊の高い音が下駄の足音や呼び込みと混じって、会話も成り立たないほどの喧噪を生んだ。裏へ回れば、銘酒屋を装った淫売屋が路地に並び、欲望と好奇心の交差点が現れる。世間からは卑猥と顔を背けられながら、若者にとっては未知への入口であり、規範を試す通過点でもあった。
この雑踏は、都市の「表」と「裏」を一続きの風景にしていた。表通りの華やかさの背後で、銘酒屋や私娼窟が半ば黙認のかたちで機能し、浅草の熱は昼夜を分たず滾った。そこへ身ひとつで足を踏み入れる若者は、物見遊山と背徳のはざまで、自分の尺度を測り直すことになる。浅草の喧噪は、単なる歓楽の音ではなく、近代大衆社会が立ち上がるざわめきそのものだった。
だが、関東大震災が一気に地勢を変える。象徴だった十二階は倒れ、千束町の遊廓も焼け落ちた。震災後の帝都復興では、防火帯となる広い道路の新設や不燃化建築の導入、公園や広場の整備が進み、浅草も区画と動線の論理で再編されていく。復興の進展は安全と衛生、都市機能の向上をもたらす一方で、震災前の混沌と熱気は「記憶」として後景へ退き、歓楽の形は映画常設館やレビュー、小劇場へと次第に姿を変えていった。
同時に、娼妓解放や女性保護を掲げる廃娼運動が大正期から勢いを増し、公娼制への批判が社会運動と行政の議題に上る。警察と衛生行政は取締と検診という二重の網で管理を強め、路地の銘酒屋は「衛生」と「風紀」の名で監視の対象となった。浅草に折り重なっていた楽しみと労働、同意と搾取、自由と規制のせめぎ合いは、近代日本が抱え込んだ矛盾をそのまま映している。
それでも、浅草の雑踏は簡単には消えない。復興後の劇場街やレビューが、かつての見世物小屋の昂ぶりを別の形式で継承し、人の流れは新しい動線を覚えながら、古い記憶を胸の奥で反芻する。路地で交わされた小さな会話、半端な明るさの裸電球、呼び込みの節回し。こうした断片は、制度の網目からこぼれ落ちる生活の温度として残り、浅草の名を聞けばたちまち立ち上がる。
浅草は、近代化の装置であり、同時にそれへの違和の坩堝だった。復興計画という直線の思考が通り、廃娼運動という倫理の言葉が響いても、雑踏の海は人の身体と声、欲望と羞恥、労働と慰めをまぜこぜにして波打ち続ける。だからこそ、あの街の熱は時代ごとに姿を変えながらも消えず、私たちが都市というものに抱く期待と不安、その両方の記憶を呼び覚ますのである。
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