明治維新後の吉原 ― 自由と規制の狭間
明治維新を迎えると、新政府は封建的制度の改革の一環として明治五年(一八七二)に「娼妓解放令」を公布した。これは遊女に年季奉公を解かせ、自由廃業を認める画期的な布告であった。しかし実態は理想から程遠かった。多くの遊女は親に売られて負債を抱えており、自らの意思で廃業しようとしても身請け金や違約金を支払うことができず、結果として遊廓に留まらざるを得なかった。制度上の解放と現実の束縛の乖離は、社会の矛盾を映し出していた。
一方、政府は近代化政策の中で「公娼制度」を整備し、遊廓を衛生・風紀管理の対象として存続させた。吉原も「貸座敷取締規則」などに基づき、営業が公認され続けたのである。これにより遊廓は「近代の公認売春制度」として明治から昭和にかけて都市の歓楽街に組み込まれていった。妓楼は和洋折衷の建築を取り入れ、電灯やガス灯が導入されるなど、近代化の影響を色濃く受けて変貌を遂げた。
しかし遊女の境遇は依然として厳しかった。衛生検査や警察の監督が強化された一方、自由は制限され、社会的偏見も根強く残った。吉原は明治以降も依然として「苦界」と呼ばれ、女性の人生を拘束する場であり続けた。
戦後、一九五六年の売春防止法施行によってようやく遊廓制度は廃止され、吉原もその長い歴史に幕を下ろす。しかしそれまでの過程は、制度改革と現実生活の乖離、そして伝統と近代化のせめぎ合いの中で、遊女たちが翻弄され続けた歴史でもあった。吉原の姿は、近代日本における女性の自由と人権の限界を示す象徴でもあったのである。
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