ベルクソン「創造的進化」第1章 生命の進化について ― 二十世紀初頭
えっとですね、ベルクソンの「創造的進化」第1章は生命の進化についての議論で、機械論と目的論では説明できないという話になります。ここでは主に遺伝が取り上げられ、生命の進化は世界観や目的の議論だけでは捉えきれないとされます。ポイントは二つあり、一つは数学で完全には記述できないこと、もう一つは当時の数学の限界です。さらに、有機物の携帯変化が無機物とは異なる点も強調されます。無機物は製作されるが、有機物は有機化される。この違いこそが遺伝や進化を考える際に重要なのです。
進化論の検討も行われ、ダーウィン、ドフリース、アイマー、ラマルクの四つの説が論じられます。ただし、この問題は数式や論理の領域ではなく、「生命の躍動(非加算無限)」として理解すべきであるとされます。「創造的進化」が発表されたのは1906年であり、確率論やアルゴリズムによる機構的説明はまだ存在していませんでした。情報数学が台頭するのは1930年代以降であり、もしベルクソンがそれを見ていたらどう語ったのかは想像の余地があります。
まずダーウィンの説です。微細な変異が自然淘汰によって累積していくと考えられました。しかし、生息環境や時期によって淘汰の条件は異なるのに、異なる環境で同じ構造が現れるのは説明できません。ベルクソンの言葉で言えば、「同じ変異が同じ順序で累積するのはなぜか」という疑問が残るのです。調和は背後にある、と彼は示唆します。
次にドフリースの突然変異説です。ある日突然巨大な変化が生物に起こり、それが子孫に受け継がれるとする説です。しかし巨大な変化が起きたとき、機能全体の調整がどのように保たれるのかは説明できません。部分的な変化が全体と自然に調和するという仕組みは偶然では片づけられないのです。
アイマーの定向進化説は、生物が光の影響を受け続けたために進化の方向が定まったとします。しかし同じ光を浴びていたはずの原始生物から、人間のように高度な神経系が発達した理由は説明できません。同一の条件でこれほどの差異が生じたのは、光だけでは説明不可能なのです。
ラマルクの説は、個体の努力が遺伝的変化を引き起こすとするものです。しかし筋肉を鍛えても新しい機能が獲得されるわけではありません。体の変化は生殖細胞には影響しないため、浅い意味での努力は進化の原因にならないのです。
このようにダーウィン、ドフリース、アイマー、ラマルクの説はいずれも決定的ではありません。偶然の積み重ねも、突発的な変化も、努力や外的条件も、進化の本質を語り得ない。ベルクソンは、生物の進化は「生命の躍動」として理解すべきだと主張します。同じ起点から分岐していくため、異なる種族に類似の構造が現れるのは自然の流れなのです。
重要なのは進化を連続した流れとして捉えることです。その流れの一部を切り取れば秩序や構造が見えますが、それは結果にすぎません。実際には単純な躍動が分岐を通じて引き継がれ、異なる種族に類似の構造を生み出すのです。瞬間を切り取った秩序を数学的に解析しても進化の本質は理解できません。あくまで「生命の躍動(非加算無限)」として物語られるべきなのです。
こうして第1章の核心は明らかになります。進化を静的な図式として捉えるのではなく、躍動そのものとして描くこと。調和は背後にあり、表面的な秩序は常に過程の断片にすぎません。ベルクソンの「創造的進化」は、二十世紀初頭においてこの視点を切り開いたのでした。
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