Tuesday, October 13, 2026

新潟水俣病 1965年から現在 阿賀野川に残る声

新潟水俣病は、1965年5月、阿賀野川下流域で公式に確認された有機水銀中毒です。新潟大学の椿忠雄、植木幸明両教授らが原因不明の水銀中毒患者を新潟県へ報告し、同年6月には患者7人、うち2人死亡と発表されました。その後、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が阿賀野川へ流出し、魚介類を通じて人体に蓄積したことが原因とされ、1968年に政府見解が示されました。 阿賀野川では、かつて魚が日々の食卓を支え、川の水は炊事や洗濯にも使われるなど、住民の暮らしと川が深く結び付いていました。水銀汚染は健康を損なっただけでなく、川魚を食べる習慣、漁業、地域社会の信頼関係にも大きな傷を残しました。 1967年には患者らが昭和電工を提訴し、1971年の第1次訴訟で原告側が勝訴しました。その後も認定や救済をめぐる訴訟が続き、新潟水俣病は医学上の問題にとどまらず、企業責任、行政の対応、公害被害者の権利を問い続ける事件となりました。阿賀野川の流れは穏やかでも、その岸辺には、被害を語り継ぎ、公害を繰り返さないための長い記憶が残されています。

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