Saturday, October 24, 2026

2011年7月灼熱の百機タンク汚染水を支えた原発作業員

東日本大震災と福島第一原子力発電所事故から約4か月後の2011年7月。事故現場では、原子炉建屋に流れ込む地下水などによって大量の汚染水が発生し、その水を処理し、保管する設備の確保が急務となっていた。鈴木智彦のヤクザと原発福島第一潜入記は、この時期の福島第一原発へ作業員として入り、そこで働く人々の姿を記録したルポルタージュである。 現場で大きな仕事の一つとなったのが、汚染水を貯蔵するタンクの設置だった。作業現場では、多数のタンクを短期間に建設する計画が進められ、百機タンクと呼ばれる作業が行われていた。事故直後の福島第一原発では、汚染水をためる場所そのものが不足しており、タンクを増設し続けなければ原子炉の冷却や汚染水処理を継続できない状況にあった。 東京電力の資料によれば、福島第一原発では2011年3月頃から2013年3月頃にかけて、比較的短期間で調達、建設できるフランジ型タンクが多数設置された。その後、水漏れなどの問題が明らかになり、より信頼性の高い溶接型タンクへの転換が進められた。つまり百機タンクの建設は、事故処理を支える応急的な巨大インフラ整備の一部だった。 しかし、その巨大設備を実際につくったのは、多数の協力会社や下請け会社から集められた作業員たちである。鈴木の記録には、九州の大牟田や荒尾など遠方から福島へ来た下請け作業員が登場する。彼らは異なる会社に所属しながら同じ現場で働き、工具を貸し借りし、休憩時間には故郷の店や町の話を交わしていた。企業の組織図とは別に、過酷な労働環境の中で作業員同士の横のつながりが生まれていたのである。 夏の福島第一原発での作業は厳しかった。防護服、マスク、手袋などを装着した状態で屋外作業を続けるため、暑さそのものが大きな負担となる。放射線だけではなく、熱中症や疲労も現場の危険要因だった。百機タンクの設置作業が灼熱地獄と表現されたのは、この二重の危険を象徴している。 作業員は放射線量を意識しながら働かなければならなかった。通常の工事現場とは違い、作業時間や場所が放射線量によって制約される。事故後の福島第一原発では、設備を早急に完成させなければならないという時間的圧力と、作業員の被ばくを抑えなければならないという安全上の要求が同時に存在していた。 その後、汚染水タンクは福島第一原発の大きな問題となる。2013年にはタンクからの汚染水漏えいが相次ぎ、東京電力は8月26日に汚染水タンク対策本部を設置した。初期に大量導入されたフランジ型タンクには、鋼板の接合部分などから水が漏れるリスクがあり、後には溶接型タンクへの置き換えが進められた。 この経緯から見ると、百機タンクは単なる建設作業の呼び名ではない。原発事故後、増え続ける汚染水を前に、とにかく容器を造り続けなければならなかった時期を象徴する言葉でもある。 そして、そのタンク群の背後には、名前が社会にほとんど知られない多数の作業員がいた。元請け、下請け、さらにその下の会社から集められた人々が、暑さと放射線の中で設備を組み立て、配管をつなぎ、現場を維持した。ヤクザと原発が描いているのは原発という巨大システムだけではない。その最下層に近い場所で、身体を使って事故収束を支えた人々の日常である。 百機タンクという言葉の向こう側に見えるのは、巨大事故への対応が、最終的には一人一人の労働によって成り立っていたという事実である。灼熱の夏、放射線管理区域の中でタンクを造り続けた作業員たち。その仕事は目立たなくても、福島第一原発の事故処理を支える重要な一部分だった。

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