Sunday, June 1, 2025

仮面の奥にひそむ夜――夏の夢と『ペルソナ』の記憶(1974年7月)

仮面の奥にひそむ夜――夏の夢と『ペルソナ』の記憶(1974年7月)

ベルイマンの『ペルソナ』を観たとき、私は息を呑んだ。沈黙する女優と看護師。その関係のなかに、私自身のなかで長いあいだ霧のように漂っていた問いが、くっきりと像を結んだのだった。俳優の「顔」は、仮面であると同時に、その人自身を暴き出す裂け目だ。私は思った――舞台に立つとき、人は己の顔をなくす。しかし、顔をなくしては、演技は成り立たない。この矛盾の中にこそ、私たちは立ち尽くしている。

あの夏の夜のことを思い出す。稽古場に集まった若い俳優たちの顔、舞台袖でひそひそと交わされた恋めいた言葉。誰もいない客席を前にして立ったときの、あの異様な静けさ。私は舞台の上で、夢と現実の境をさまよっていた。観客の前で脱ぐこと、それは必ずしも裸になることではない。ならば私は誰に向かって脱いでいたのか。問いは答えを拒むように、私の中でぐるぐると巡った。

演じるということは、私にとって、自己を捨てることではなく、捨てきれない自己と戯れることだった。私は舞台の上で、誰かを演じながら、常に自分に出会っていた。夢に身を沈めるような感覚。現実ではない場所で、最も現実的な自分の輪郭が浮かび上がる不思議。

この文章を書いている今も、私はひとつの舞台の上にいるような気がする。比喩の断片、過去の記憶、そしてベルイマンの映像の残像が交錯する中で、私は静かに問い続けている。仮面を被っているときこそ、本当の顔が見えるのではないか。私が演じているのか、それとも沈黙しているのか。夢と呼ぶにはあまりに生々しく、現実と呼ぶにはどこか薄明るい、あの夏の夜のような感覚が、まだ私の中に残っている。

No comments:

Post a Comment