Sunday, June 1, 2025

怒号と静寂の谷間で――産廃処理場をめぐる対立の記録 - 1994年8月

怒号と静寂の谷間で――産廃処理場をめぐる対立の記録 - 1994年8月

1994年、日本各地で産業廃棄物処理場の建設をめぐる対立が激化していた。経済成長の裏側に積み上げられた廃棄物の山。それをいかに処理するかという問いは、都市と地方、行政と市民、利益と安全という構図を浮き彫りにした。

神奈川県小田原市。ある説明会の場で、住民は問いを突きつける。「地下水が汚染されたらどうするのか」。業者は冷静に応じる。「モニタリングをしています」。しかしその言葉は住民の耳には届かない。「それでは遅いんだ!」。会場には怒号が飛び交い、空気は凍りついた。

このような感情のぶつかり合いは、仙台や福岡、北海道でも報告された。ただの行政手続きでは収まらない、生活と命を守るという本能的な叫び。説明責任や科学的根拠だけでは解けない対立が、全国の静かな町を覆った。

当時、ゴルフ場開発の失敗により空いた土地が、次なる用途として「産廃処理場」へと姿を変える例が相次いでいた。地価が下がり、林業が衰退した山間部。経済効果を望む地権者と、そこに住む住民のあいだに、見えない境界線が引かれた。

一方で、国や地方自治体は、この産廃処理事業を「民間活力」に委ねようとしていた。だが実際には、資金力に乏しい小規模業者や、過去にゴルフ場ビジネスで失敗した者たちが、許認可だけを手にして名義売買を行う実態があった。

住民にとっての問題は二つ。ひとつは地下水の汚染、もうひとつは交通による生活環境の破壊だった。谷あいの細道に、日々100台を超える10トンダンプが走る。その振動と騒音は、自然とともにあった暮らしを根底から覆す。

浸出水による地下水の汚染が起きても、因果関係の立証は困難で、賠償責任の所在も曖昧。業者が姿を消せば、残されたのは汚れた水と、声を失った住民だった。そんな事態を誰もが恐れていた。

この時代、環境NGOの活動が広がりつつあり、各地の住民運動が横につながり始めていた。葛生町では、設置阻止のために住民が処理場入口に座り込み、小田原では県庁への抗議デモが起こった。仙台では、事業者が最終的に稼働を断念した。

これらの出来事は、ただのローカルニュースではなかった。それは「環境民主主義」の胎動であり、「情報公開」と「参加」の理念がようやく社会に根を下ろそうとしていた瞬間でもある。

怒号が飛び交う説明会。沈黙する業者。苦しむ行政担当者。だがその全ての背後にあったのは、「この場所で、これからも生きていく」ことへの執念だったのかもしれない。都市の論理と地方の生活が交差するその場所に、私たちは何を残すべきだったのか。

1994年、静脈産業をめぐるこの攻防は、次なる環境政策の土台となってゆく。怒りも、涙も、やがて制度という名前を得て、社会の仕組みへと溶け込んでいった。

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