Sunday, May 4, 2025

〈義の花、血に咲く――旗本と町奴の相克〉-江戸初期(寛永年間)

〈義の花、血に咲く――旗本と町奴の相克〉-江戸初期(寛永年間)

江戸時代初期、幕藩体制が安定しつつあった寛永年間――徳川家光の治世にあたるこの時期は、武士の統制と町人社会の秩序づくりが進められた時代である。そんな中で、江戸市中の芝居小屋や遊里を舞台に、旗本と町奴という、身分も生活圏も異なる男たちの対立が繰り広げられた。

旗本とは、将軍に直接仕える中級武士であり、軍役や御目見以上の待遇を受けた者たちである。彼らは武士の格式を保ちつつも、日々の生活は窮乏しがちであった。その鬱屈はときに、町人社会への粗暴な振る舞いとして現れた。これに対し、町奴と呼ばれた町人たちは、町火消や木戸番などの実務を担いながら、侠気と腕っ節を誇って町の名誉を守る存在だった。幡随院長兵衛は、そんな町奴の棟梁である。

水野十郎左衛門は、幕府の重臣水野家の一族で、旗本として権威と武力を背に江戸市中を闊歩していた。彼と幡随院長兵衛の因縁は、一説には芝居小屋を巡る縄張り争いとも、芸者の取り合いとも言われているが、真相は明らかでない。ただ、両者の対立は、江戸の秩序そのものを揺るがすものであった。

幕府はこうした市中騒擾を重く見て、「喧嘩両成敗」の原則に則り、旗本と町人の立場を問わず、対等に裁いた。すなわち、長兵衛は町奴の頭領としての義を貫いたが、幕府にとってはその振る舞いが"無頼"と見なされ、水野の手で討たれたことも、"成敗"の一つとして黙認されたのである。

この出来事の背後には、町人文化が力を持ち始めた時代の息吹がある。江戸は武士の町であると同時に、市井の町人が日々の暮らしと娯楽を織りなす、文化の都市へと変貌しつつあった。幡随院長兵衛は、秩序に従属する町人ではなく、町の誇りを担う侠客として、後世に語り継がれることとなる。

旗本による無法が黙認され、町奴の義が咎められる――この構図は、幕府体制における法と身分秩序の葛藤を象徴するものであり、江戸という都市が抱えた政治的矛盾の一つの顕れであったと言える。幡随院長兵衛の死は、義と法の交錯点に咲いた、江戸初期のひとつの矜持であった。

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