Tuesday, September 2, 2025

北見の黒い凍土 ― 一和会と稲川会の抗争史(1984〜1986年)

北見の黒い凍土 ― 一和会と稲川会の抗争史(1984〜1986年)

昭和59年、道東の都市・北見は突如として「北見戦争」と呼ばれる暴力団抗争の渦に巻き込まれた。地元に根を張る一和会と、関東から勢力を伸ばす稲川会との間で、歓楽街や建設業界の利権をめぐる摩擦が火を噴いたのである。7月には稲川会側が散弾銃で一和会系事務所を襲撃し、街は緊張に覆われた。翌60年の夏、花田組組長の花田章が北見市内の駐車場で銃撃され4日に死亡すると、抗争は一気に全面戦争へと拡大した。

8月には小樽の朝里川温泉で一時的な手打ちが交わされるが、火種はくすぶり続けた。11月19日、北見のキャバレー北海道で稲川会星川組組長が射殺され、再び流血の報復が繰り返される。12月には一和会花田組の幹部や組員が銃撃され、北見の歓楽街は恐怖の空気に包まれた。抗争は昭和61年1月15日、白老町虎杖浜の温泉宿でようやく手打ちとなり、2年近くにわたる抗争は幕を下ろした。

この北見抗争は、昭和50年代から60年代にかけて続いた北海道の暴力団史の中でも特異な位置を占める。昭和55年には山口組系加茂田組と地元の同行会との間で「千歳空港大動員事件」があり、道警が数百人を投入して暴力団の衝突を未然に防いだ。こうした緊張関係が続く中で、一和会が全国的に山口組から分裂して誕生し、その一部が北海道に拠点を築いたのである。他方、稲川会は関東を基盤としながらも北見をはじめとする道東への進出を強め、衝突は必然だった。

全国的には同時期、山口組と一和会が全面抗争を繰り広げ、世論の高まりは暴力団対策法制定へと結びついた。北見抗争はその局地的表現であり、地方都市においても大組織の抗争が直接的に地域社会を揺るがすことを示したのである。北見市ではこの事件を契機に暴力追放協議会が設立され、住民と警察の連携が常設化した。

主要人物の顔ぶれをたどると、一和会側では会長山本広、副会長加茂田重政、幹事長佐々木将城が中心となり、道内では加茂田組の支部である花田組が前面に立った。組長花田章は抗争の最初の犠牲者となり、若頭飯田時麿が組を支えた。稲川会側では当初の会長稲川聖城、のちに石井隆匡が率い、現地では岸本組組長や星川組組長が一和会と衝突した。星川は最終的に銃撃で命を落とし、抗争の苛烈さを象徴する存在となった。

経済的背景としては、炭鉱閉山による地域経済の空洞化と、歓楽街や建設産業における利権の肥大化が抗争の温床となった。道東の都市は経済的な不安定さのなかで裏社会の影響を受けやすく、北見抗争はその典型例であったといえる。

かくして北見の街は、1984年から86年にかけて、凍てつく冬の大地の下で血と火薬の匂いに包まれた。この抗争は単なる地域の衝突ではなく、全国規模の暴力団抗争の余波であり、同時に北海道社会における「暴力排除」の意識を芽生えさせた歴史的事件として記憶されている。

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