Wednesday, February 18, 2026

東京に積もる見えない山 処分場確保の困難 1960年から1975年

東京に積もる見えない山 処分場確保の困難 1960年から1975年

処分場確保がずっと難題になりやすいのは、単なる物理的な用地不足だけでなく、都市の仕組みそのものに原因があります。発生地と処分地が分離し、負担が偏る構造が固定されるからです。都心部で毎日生まれるごみは、最終的に外縁部や沿岸部へ運ばれます。距離が伸びれば運搬コストや交通負荷は増し、受け入れ側には臭気や害虫、景観や地域イメージ、浸出水やガスへの不安が集中します。必要性は理解できても、近くは困るという反発が生まれ、計画は長期化しやすいのです。

量の問題も、この構造を加速させます。焼却施設や中間処理が追いつかない時期には、燃やして減らしてから埋めるという前提が崩れ、未処理に近いごみが埋立へ回り、処分場の消耗は速まります。逆に焼却や資源化が進めば埋立量は抑えられ、残余年数は延びます。環境省の公表では、令和五年度末時点で一般廃棄物の最終処分場残余容量は九千五百七十五万立方メートル、残余年数は二十四点八年とされています。しかし全国平均に余裕が見えても、地域ごとの偏りは残り、首都圏のように土地制約が大きい地域では、新しい処分場をどこに確保するかという問いは消えません。

東京でこの構造が社会問題として噴き出した代表例が、いわゆる東京ごみ戦争です。高度成長期にごみが急増する一方で、焼却施設の建設は住民反対などで進みにくく、大量のごみが埋立へ回り、沿岸部の環境負荷が強まりました。受け入れ側の江東区では悪臭や害虫、ごみ運搬車両による生活環境悪化への不満が蓄積し、持ち込み反対決議や搬入阻止に至ります。杉並区では清掃工場建設をめぐる対立が広がり、都市内部で処分地と発生地の責任をどう分かち合うのかが問われました。

用地不足の局面では、都市は海へ押し出す形を取りやすくなります。内陸で広い処分場用地を確保しにくい大都市圏では、港湾空間の海面処分場が重要な受け皿となり、東京港でも新海面処分場の整備と受け入れが進められてきました。しかし海も無限ではなく、整備には長い時間と費用がかかり、受け入れ品目の管理や環境保全も厳格に求められます。

結局、処分場確保の困難は、量を減らす施設立地にも反対が起き、埋める場所を探しても反対が起き、時間がかかるほど逼迫が進み、対立が強まるという連鎖で繰り返されます。だからこそ、技術対策だけでなく、負担の公平性、情報公開、地域への便益や監視体制など、合意形成の設計そのものが政策の中核となります。ごみは都市の外へ消えるのではなく、見えにくい場所へ移されるだけなのです。

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